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キリストに立ち返る日本を夢見て
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キリストによる和解~ルワンダの奇蹟 |
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日本国際飢餓対策機構 田村治郎
「教会は怖いですね。でも、イエス様は違いますね。」 中部アフリカに位置し、「千の丘」と呼ばれるルワンダは、21年前の1994年4月から約3か月の間に、フツ族急進派が、80万人とも100万人とも数えられるツチ族と、虐殺に同調しない穏健派のフツ族の人々を虐殺しました。現在、日本国際飢餓対策機構(JIFH)は、日本バプテスト連盟より国際ミッションボランティアとして派遣されている佐々木和之氏の助けを得て、「ルワンダの人々のいやしと和解」を目的とする、現地の教派を超えたクリスチャンNGO団体REACH(Reconciliation Evangelism And Christian Healing for Rwanda)のセミナーや、スポーツを通しての青少年平和構築プログラムに協力させていただいています。筆者も、7度現地を訪問させていただく機会がありましたが、その都度感じることは、少しずつではあっても確実に、虐殺被害者と加害者との間に赦しと和解、そして相互関係が修復されているということです。 ルワンダは、カトリックが19世紀末、プロテスタントが20世紀初頭に宣教を開始し、わずか半世紀の間に国民の大多数がキリスト教を受け入れるという、福音宣教史上「福音化が最も成功した国」として知られた国でもあり、そのような国で起こった虐殺は、福音宣教のあり方やその後の信仰生活が問われるなど、今日の宣教のあり方に大きな課題を提示するものでありました。 虐殺が勃発した年、筆者は奈良県の小さな町で母教会の開拓伝道の働きに従事していました。アメリカや韓国の教会成長論を学び、この小さな町にも人々が駆け集まる教会の形成を願い、クリスチャン人口が0.1%と言われるこの日本で、なんとかリバイバルの端くれでもと祈り願い、開拓の働きに励んでいました。その頃、クリスチャン人口が当時80%以上と言われるルワンダで虐殺が起こりました。 これほど多くいるはずのクリスチャン・教会は、なぜ虐殺を止めることができなかったのでしょうか。いや、虐殺の詳細が伝わってくるに従って明瞭になってきたのは、なんと教会が虐殺に積極的に加担したということです。クリスチャンの数、教会の数が、この日本に変革をもたらすと信じて数にこだわっていた筆者にとっては、愕然とする事実でした。 日本にいては、「なぜ?」という疑問に答えを見いだせるほどの情報が入手できない中、虐殺から12年後の2006年、日本国際飢餓対策機構のスタッフとして、初めてその地を訪問することができました。国際飢餓対策機構ルワンダの活動地を視察させていただいた後、首都キガリから西に陸路3時間ほどの所にあるンディザで19名ほどのカトリック、聖公会、プロテスタントの教職者の方々と面談する機会を設けていただきました。私たちは集われた方々に率直に疑問を投げかけました。「なぜ、これほど多くのクリスチャンがいる国で、虐殺を止めるどころか、教会が積極的に加担することとなったのですか。」お一人お一人が悔い改めの思いを持って丁寧に答えてくださいました。 カトリックの神父は、「私たちはあまりにも国家と近すぎたため、国が虐殺を計画していることを知っていても何も言えず、正しい対応ができなかった。」当時のカトリック教会は、国家の庇護の元に置かれ、社会に対して影響力を持ちながらも沈黙してしまいました。そこに同席していた別の神父が、「もしあの時、虐殺は神のみこころならず!と教会が発言していたら、虐殺は小規模なものであったか、虐殺そのものが起こらなかったかもしれない」と発言された言葉を、私は心に重く受け止めました。聖公会の司祭は、「私たちは、教会の定めた規則にさえ従っていたら、自分たちは立派なクリスチャン、聖い者となれると考えていた」と告白され、教会が遣わされている地域社会で何が起こっているかに疎く、自分たちの聖さや祝福のみに関心が向けられ、全くの内向きな姿勢であったと告白されました。最後に、プロテスタントの牧師が「それは牧師の責任です」と背筋を伸ばして明確に語られました。どういう意味かと聞いてみると、「私たちは、うわべの愛と平和しか説いてこなかったのです」と答えられました。 ベルギー統治時代、その統治手法としてフツ、ツチを分断する政策が取られ、長年にわたって、双方の人々の心に軽蔑と憎しみの感情が培われていきました。独立した後も、その相互の感情はそのまま残り、クリスチャンの心にも依然と存在したままでした。軽蔑や憎しみは、罪として十字架の前に悔い改めるべきであって、牧師はみことばから人々に悔い改めを迫り、赦しをいただいた新しい共同体としての歩みを始めるべきでした。しかし、多くの牧師は、そのような悔い改めを迫るメッセージを語らず、うわべの愛と平和のみを語ってきました。それがまた別の牧師の「私たちは、人々の生き方に変革を与えるメッセージを語ってこなかった」という言葉に集約されているように感じます。 しかし、虐殺後、悔い改めの心を持ったいくつかの教会は、明確な十字架のメッセージを語り、一人一人の信徒たちがイエス・キリストと人格的に出会うことに心を注いできました。冒頭の言葉は、虐殺被害者の婦人で、ご主人と子ども、親戚を多数殺されたものの、虐殺の後にクリスチャンになった方の言葉です。見て見ぬ振りをする教会、自分たちばかりに目を向けて他者や社会の必要から目を背ける教会、うわべの愛と平和でごまかし、虐殺に加担する「教会」という組織ではなく、イエス・キリストとの人格的な出会いによって導かれた信仰だと言えるでしょう。 虐殺が終わり、新政権が樹立しましたが、ルワンダに最も重くのしかかっている課題は、生存者を含めて100万人以上もの被害者と、数十万にも上る加害者が、同じ国に生きなければならないということと、国の再興は、この両者の赦しと和解抜きにはあり得ないということです。まさにREACHの働きは、地道ではありますが、被害者と加害者の方々に寄り添い、それぞれの話を丁寧に聞き、加害者の謝罪と被害者の赦し、そして相互の和解と関係の修復がなされるよう助けることです。REACHのこの活動には、非常に意義深いものがあり、イエス・キリストの十字架の意味が深く個人と社会に問われるものとなっています 。 写真の婦人は虐殺生存者のイマキューレ・ムカニャルワニャさんです。当時、同じ村の住民によってご主人と2人の子どもが殺されました。逃げ込んだ村のンハラマ教会では、約5千人もの人々が虐殺され、彼女と数名だけが生き残りました。当時臨月だった彼女は、1歳にも満たない幼子を背負って、村はずれに流れる川のほとりの湿地帯に逃げ込み、そこで女の子を出産しました。その子ももう20歳に成長しています。虐殺が終結し、新政府の樹立によって安全が確保され、自分の村に帰った彼女が目にしたものは、荒らされた畑と破壊された自分の家でした。今、その彼女の家を、直接の加害者本人、またその働きに賛同した加害者30人を超える人々が建て始めています。「刑期を終えたらそれで終わりだとは思っていないことを、行動で表したい」との加害者有志の思いに、佐々木和之氏とREACHの協力によって始まった「償いの家造り」の一つです。 佐々木氏の言葉が深く心に響きます。「加害者によるこの家作りは、被害者の根源的なニーズに応えるものなのです。それは『尊厳の回復』と言い換えることができるかもしれません。被害者の方々を山刀で斬りつけた者たちは、その暴力行為によって、その方の人間性を否定し、尊厳を踏みにじりました。加害者たちによって奪われた尊厳の回復のために、加害者たちによる具体的な償いがとても重要な意味を持っています。」 加害者による具体的な謝罪の現場に足を運ぶ彼女が、まず最初にすることは、そこで働く一人一人と握手を交わして挨拶をし、その労に感謝することです。その姿には感動を覚えます。時が1994年で止まったままでなく、少しずつ未来に向かって流れ始めていることを実感します。それをなし得るのが、イエス・キリストにある十字架の愛、赦しによる相互の関係修復であることを見させていただきました。 あの虐殺から21年、ルワンダにある教会は、少しずつ互いの悔い改めを経て、教団・教派を超えて協力しつつあります。現在のクリスチャン人口は、全人口の90%に迫るものと言われています。まだまだほんの一握りの人々でも、この悔い改めと赦し、償いと和解、そして関係の修復という、イエス・キリストの愛をクリスチャン一人一人が実践する時に与えられた祝福であると思うのです。 日本では、山刀やこん棒などで人を傷つけることはないでしょう。しかし、言葉や思いで、時にはその人の正しいとする信仰の姿勢によって、自分とは違う他者を拒否したり、断罪したりしてはいないでしょうか。最も赦しと和解を実践すべきクリスチャンの世界で、自分とは違う他者を拒否することが当然のようになされてはいないでしょうか。真剣に主の愛に具体的に生きるということが問われているはずです。
「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、…十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」 (エペ 2:14~16、口語訳)。
田村治郎 一般財団法人 日本国際飢餓対策機構スタッフ。 国内外の啓発活動を担当。全国の教会や学校、企業などでの説教・講演を通して、世界で飢餓と貧困と闘う人々と日本国内の人々とを繋ぐ働きに従事。日本福音自由教会協議会 グレース宣教会牧師。
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