キム・ジョンフン Ι 白石大学校 神学大学院 新約学教授
再臨信仰はキリスト教信仰の核心中の核心です。テサロニケ人への手紙は終末書簡と呼ばれています。それは、終末論の教理の内容が、非常に印象的に記されているからです。テサロニケ人への手紙第一の各章は、キリストの再臨に対する記述で締めくくられています(1:9~10;2:19~20;3:13;4:13~18;5:23~24)。中でも4章は6つの節に分かれ、キリストの再臨に関する独特な情報を提供しています。テサロニケ人への手紙第二は、3つの章からなる短い書簡ですが、実にそのうちの18の節で、終末論について扱っています。
主の再臨に関する特級の情報 テサロニケの教会の一部の人々は、主の再臨を大きく誤解していました。彼らは、主の再臨の前に死んだ人々は救いを失い、主の再臨の時にその栄光にあずかれないと考えていました。これに対してパウロは、死んだ人々について希望がないかのように悲しまないよう勧めています。イエスの十字架と復活を信じる限り、人の死については全く心配する必要がないからです。イエスが再びよみがえられたように、イエスにあって死んだ人々は、主の再臨の時にはよみがえることになるからです。 主の再臨の時、生き残っている人々が死んだ人々よりも優先されることはありません。号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きのうちに、主が天から下ってこられる時、まず死者がよみがえり、次に生き残っている人々が存在の変化を体験するようになります(Ⅰテサ 4:16~17)。そして、復活した聖徒と生きたまま変化を体験した人々がともに雲の中に一挙に引き上げられ(携挙)、空中で主と出会い、いつまでも主とともにいることになります。このような主の再臨は、夜中の盗人のように来て、妊婦に産みの苦しみが臨むように決してそれを逃れることはできません(Ⅰテサ 5:2~3)。 このように教えられていましたが、誤った再臨説を主張する人々は、教会を混乱させました。さらに、ある人々は、キリストの再臨が近づいたので、仕事をしないと主張しました。彼らはおせっかいばかりして、怠惰な生活をしていました(Ⅱテサ 3:11~12)。これに対し、パウロは偽りの話に動じないようにと、くれぐれも頼みます。ある人々が神の啓示を受けたと言って偽りの論理を提示したり、パウロが送ってきた手紙だと言って人々の歓心を買おうとしたのでしょう。そのようなことで主の再臨が迫っていると考えて動揺し、だまされないようにとパウロは願います(Ⅱテサ 2:2)。 パウロは、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないと宣言しています(Ⅱテサ 2:3)。「不法の人、すなわち滅びの子」とは、終わりの日に現れる反キリストを指しています。反キリストは自分を神とし、再建されたエルサレム神殿に自分の座を設け、ユダの民に礼拝するよう強要します(Ⅱテサ 2:4)。パウロは「不法の秘密」がすでに活動していると言っています。これは終わりの日に不法の人を到来させようと(Ⅱテサ 2:9)、サタンがすでに活動しているという意味です。 しかし、今は不法の人の現れを引き止めている方がおられます(Ⅱテサ 2:6~7)。その方とはまさしく聖霊です。聖霊が今、サタンの活動を抑制しておられます。しかし、結局は不法の人が自身を現すことでしょう。彼はサタンに操られ、すべての力、偽りのしるしと奇蹟、すべての不義のまやかしによって滅びる人々を蹂躙するでしょう。しかしこの時、主イエス・キリストが再臨され、その御口の息(みことばの力)で彼を殺してしまわれます(Ⅱテサ 2:8)。主は無限のいのちの力により、彼を滅ぼしてしまわれるのです。
再臨信仰を持つ人の人生 すべての聖徒は、夜や暗やみの者ではなく、光の子ども、昼の子どもであり(Ⅰテサ 5:5)、再臨信仰を持つ者たちです。ですから、霊的に眠っていてはなりません。霊的に眠ることは、罪の暗やみで死の眠りに落ちることなのです。聖徒は、悪の暗やみでさ迷って酒に酔ったりせず(Ⅰテサ 5:7)、目をさまして昼の子どもとして歩まなければなりません(Ⅰテサ 5:6, 8)。慎み深くし、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶらなければなりません(Ⅰテサ 5:8)。確固たる再臨信仰を持っていた使徒パウロのように、霊的に武装して、怠けることなく、悪に立ち向かって生きましょう。
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