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キリストに立ち返る日本を夢見て
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イエス様の十字架の愛 |
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日本福音同盟(JEA)総主事 品川謙一
皆さんは、何か自分のやっていることや、属しているものが破綻してしまったという経験はありますか。そのようなことに直面したとき、あなたはどうしましたか。中にはその現実を見て見ないふりをする人もいるでしょう。そうすれば、一見傷つかないから、ある意味、賢いやり方かもしれません。またある人は、その中に入っていって問題を解決しようとする人もいるでしょう。これは勇気がいることです。自分も傷つけられるかもしれないからです。あるいは、その状況を解釈し直して「これでよかったのだ」と言い聞かせ、何とか自分のバランスを保とうとする人もいます。 きょうは、自分が大事にしているものが破綻してしまったとき、その向こう側に、実は大切なイエス様の愛が隠されている、ということを分かち合いたいと思います。 私にとって、そのような破綻経験は、中学3年生のときに、両親が離婚したことでした。ちょうど受験が終わったタイミングで、そのようなことが起こったのです。とてもショックでした。自分を守ってくれていた親の枠組みが壊れ、自分は放り出されてしまったような感覚でした。同時に、これは家族だけではなく、教会としても、あってはならないような苦しい経験でした。私の祖父は牧師で、母がその娘、父は教会の役員という立場でした。開拓教会の牧師の娘が離婚をし、その夫が家から出て行ってしまったのです。当時の教会の中では、あまりにもつらい出来事だったので、多くの人が口をつぐんでしまい、何もなかったかのように振舞っていました。しかし、そのような教会の人たちの態度に私はとても傷つきました。私はとてもつらい思いをしているのに、愛に満ちているはずの教会の人たちが、何もなかったかのように過ごしていたからです。中には、個人的に声をかけてくれて、一緒に祈ってくれる人もいましたし、今となってはそうすることは彼らの配慮だったとわかるのですが、当時の自分にとっては「教会とは何だろう?」という疑問と、心の傷を残した出来事でした。 私は神様に対しても非常に怒りました。神様を信じてきたのに、どうしてこういう仕打ちを受けるのかと思いました。神様に向かって何度も「どうしてですか!」と怒りをぶつけました。そして私は教会から離れ、自分の両親ともできるだけ会わないようにしようとしました。それで私はアメリカに行って、高校と大学時代をそこで過ごしたのです。 私たちは破綻して、何かが壊れてしまうと、福音が福音として働かなくなります。ひと言で言えば、私が考えていた「教会」とか「家族」というのは、自分の作り出したイメージだったのだと思います。それが壊れた先はどうなるのでしょうか。ここが大事です。私にとっては、本物を探す旅になりました。キリスト教も教会も信じられなくなり、「では、本物は何なのだろう」と思い始めたのです。 私がホームステイをした家族は、ユダヤ人の家族でした。学校に行くと、当時、中東から移民してきたイスラム教徒の友だちもいましたし、南アジアからヒンズー教や仏教の背景を持った人たちも来ていました。そういう人たちとも交流をしながら、「何が本当に自分を生かし、何が自分に使命を与えてくれ、力を与えてくれるものなのか」と模索しました。 皆さんも似たようなところを通過したことがあるのではないでしょうか。私の場合、その本物を探す旅の中で、何年かの期間が過ぎたあと、もう一度聖書に出会いました。アメリカですから、どこにいてもクリスチャンの友だちがいて、教会に誘われることも何度もありました。自分は基本的には教会に行かないと断っていましたが、友だちがあまりにもしつこいので行くことにしました。友だちとしての義理を果たすつもりだったのです。何回か行って、メッセージも聞きましたが、それほど心に響くものはありませんでした。しかし、そこに置いてあった聖書が気になり始めました。聖書は私も何度も読んで知っていましたが、なぜかそのときは気になって、何回かその教会に行くうちに、書店に行って聖書を買い、読み始めました。それから何年か経ったある日、不意に聖書のことばが迫ってきました。 その時の聖書の個所は、マルコの福音書15章22~41節で、イエス様が十字架につけられたところです。この個所では、兵士たちがイエスを侮辱し、服を脱がせてくじで分け合い、人々は非常に辛辣な言葉や侮辱をイエスにかけました。ここでいつも私が思い浮かべるのは、“コールセンター”です。いろいろな怒りや不満を抱えた人たちが電話で苦情を言う“コールセンター”は、ある意味、合法的にいじめられている人たちなのです。商品の不満だけでなく、生活の中で溜まったストレスまで電話越しにぶつけてきます。 これと同じようなどろどろした人間の、一番醜い部分が出てきてしまうところが、この十字架だと言えます。兵士たちが普段から抱いていた不満をイエスにぶつけたのです。そのような修羅場の中で、イエス様は黙々とその道を行かれました。イエス様は十字架から降りて、そこにいる人たちをなぎ倒してしまうこともできた方です。でも、あえてそのようになさらず、父なる神のご計画に従って、ご自分をささげられました。 私はこれを読んだときに、自分の心の内にある、両親や教会や神様に対する怒りが、この兵士や祭司長たちの怒りと重なって見えました。自分こそがこのイエスを十字架につけている人間なのだと。それまでも、神・罪・救いという話は聞いてきたわけですが、私にとってそれは方程式のようなものに過ぎませんでした。自分の罪、自分の一番醜い部分、それとは全くリンクしていなかったのです。しかし、この聖書の個所に直面し、「ここに本物がある。本当に私という人間を、自分でも隠しておきたい、一番罪深い姿をも含めて愛してくださっている」と思いました。イエス様の愛の深さは、私たちには到底想像もできません。そのイエス様の姿に気づかされたとき、私はもう一度教会に戻り、クリスチャンとして生きるという決断へと導かれたのです。 破綻した向こう側には、実は本物が待っています。これがきょう、皆さんに考えていただきたい真理です。皆さんには、「これは決して譲れない」、「これを守るために私は生きている」と言えるものがありますか。自分の仕事、家族、恋人、自分の計画もあるかもしれません。もしそれが、自分の思いで作り上げている虚像のようなものであるなら、もしかするとそれはあなたの信仰が本物になるために、破綻する必要があるかもしれません。イエス様の十字架の愛というのは、私たちが「これが教会だ」「これが信仰だ」と思っているものよりも、もっと深くて大きくてすばらしいものです。そこにチャレンジしてください。 今、日本には8千くらいの教会があって、人口の0.6%つまり約78万人くらいの人々がクリスチャンです。世田谷区が約80万ですから、世田谷区の人口よりも少ないということになります。私は、私たちがその中でだけしか通じない言葉を使っていたり、その中だけで話をしていたら、その先には行けないのではないではないかと思わされます。ひょっとしたら、今、私たちが考えている教会や信仰の形は、一度破綻して、新しく本当のイエス様の愛が現れる姿に作り変えられるべきなのかもしれないと思わされます。それは、何かを壊すべきだという意味ではなく、自分の力で守って、「これが壊れないように何とかがんばる」というのは、間違っているということです。私たちが守ろうとしているものよりも、神様の愛ははるかに大きいのです。私たちが守ろうとしているものが一度壊れることによって、イエス様の愛による新しい現実が生まれてくると信じます。その可能性に、私たちはチャレンジしていきたいと願います。 皆さんがそれぞれの場でクリスチャンとして生きていく時に、ぜひこの聖書の個所のイエス様の姿を思い出してください。そして、この恨みつらみを全身全霊で受けながら、人間の罪の真っ只中におられながらも、しっかりとそれを受け止めてくださり、ご自分が神様から見捨てられるという限界までいかれたイエス様を覚えてください。 「…イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マコ 15:34)。これは、イエス様が完全な人間として生きられたということを表しています。ひとりの人間が十字架につけられるのと同じような不安や痛み、そして神様から見捨てられた形でさばかれるときの気持ちを、イエス様は完全に経験してくださったのです。人間として一番どん底の状態です。自分が殺されるとわかっていて、しかも、神様からも見捨てられるのです。そういう所までイエス様はひとりひとりのたましいを愛してくださったのです。ですから、私たちはそのイエス様の愛を感じるなら、恐いものはないと思うのです。 そこまで経験してくださったイエス様が一緒にいてくださるのですから、どんどんチャレンジしてイエス様の愛を届けてください。そのことを皆さんと一緒に経験していきたいと願います。実際、東日本大震災の被災地では、今まで教会の中だけで礼拝や奉仕をしていた人々が地域に出ていって、仮設住宅やさまざまな地域で活動しています。それはある意味、神様から押し出された結果です。そこで実際に神様の深い愛が、私たちの想像を超えた場所で生きて働いています。 以前、「イスラム国」に加わろうとして日本から出国しようとしてた青年が捕かまったというニュースを見ました。彼の背景を見てみても、「何が本物なのか、何が自分のいのちをかけてもいいぐらい大切なものなのか」ということを確かめたくて、日本のぬるま湯のような状態から、非常に過激な思想を掲げた所に出ていこうとしたようです。 それを聞いたときに私が思ったことは、日本の教会の宣教が足りないということです。ここに、「いのちをかけても悔いのないイエス様の愛」という本物があるにもかかわらず、それを伝え切れていないのだと思わされました。本物を探し求めている若者がたくさんいると思います。それなのに、残念ながら日本の教会はそこに届いていないのです。これは、私も地域教会の牧師として悔い改めなければならない問題だと思います。私たちがもっと本気でこのイエス様の愛を伝えていかなければならないと思わされました。 イエス様の愛をもう一度心に植えつけてください。私たちの周りには、一見大丈夫に見えても、破綻してイエス様でなければいやされない痛みを抱えている人がたくさんいます。その人たちのたましいにイエス様が触れてくださるよう、十字架の愛の深さを思い起こし、周りの人々にイエス様を伝えていきましょう。
品川謙一 日本福音同盟(JEA)総主事。
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