神戸改革派神学校校長 吉田 隆
言葉の最も広い意味において、「神学」とは(いかなる宗教であれ)信仰者ひとりひとりが持っている「神知識」のことを指します。神とはこういう方だ、こんなことをなさるのだと、ひとりひとりが受け止めている知識。それを「神学」と呼びます。 しかし、私たちキリスト者にとっての神知識とは、自分勝手に考え出したものではなく、何よりも生きておられる神ご自身が私たちにご自分をお示しくださった「聖書」に基づく神知識でなければなりません。 この聖書から神について理解し、その知識が真実であることを生活の中で体験し、自分の信仰の血となり肉となり、そうしてそれを表現する(伝える)者となっていく。これが生きたキリスト教神学の営みなのです。
理解すること 聖書から神知識を理解すると言いましたが、実は聖書記者たち自身が「神学」をしています。つまり、自分に与えられ、自分自身が経験した神知識を、さまざまな仕方で私たちに伝えようとしているのです。ある書物では歴史物語を通して、ある書物では預言という形でストレートに、詩篇などでは自分の神知識を歌にして、またある書物では現実の生活と信仰の矛盾を問いながら、それぞれの形で神知識を深く豊かに伝えようとしています。 ですから、聖書を学ぶ際には、それを記した人々がどのような目的と方法で伝えようとしているか(ルカ 1:1~4、ヨハ 20:31など)を、しっかり理解することが大切です。 さらに、私たちの神知識が自分勝手な知識とならないようにするために必要なことは、教会の歴史に学ぶことです。教会の、とりわけ教理の歴史は、聖書から神学を学び続けた人々の歴史と言うことができます。2000年にわたって真剣にみことばと向き合い、懸命に祈りながら神学を学んできた人々の理解を軽んじてはなりません。
生活すること 聖書と教会の歴史から学ぶことの大切さは、どんなに強調してもし過ぎることはありません。しかし、私たちキリスト者の神学は、決して単なる知的理解で終わるものでもありません。なぜなら、私たちが信じる神は、生きておられる方だからです。 聖書から理解し、教会が信じてきた神知識が「本当にそのとおりだ!」と言えるような体験をすること、これこそが私たち信仰者に与えられた特権であり、これによって神学は生きたものとなるのです。教会堂の中だけではありません。こんなちっぽけな私の生活の一コマ一コマに神が働いておられるという、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」に気づいたとき、他のいっさいのことを損と思えるような価値変換が起こります(ピリ 3:8)。 このような神学の喜びを知った者は、聖書を読むにしても説教を聞くにしても、その姿勢が自ずと異なってくることでしょう。そこに生きた神の御声を聞くようになるからです。このように、生きた神学とは、何よりも自分自身が変わっていくことだと言うことができましょう。
表現すること・伝えること 「神学よりも伝道だ!」と言われることがありますが、実際には神学のない伝道は、独りよがりの自己宣伝になる危険性があります。また、そもそも正しい神を知らずに伝道ができるはずもありません。他方、神学(セオロギア)は、その語源からして神(セオス)についての言葉(ロギア)なのですから、神について表現し、伝えるということが含まれているものなのです。ですから、教会史上、すぐれた神学者たちはみな、すぐれた伝道者でもありました。 もちろん、言葉だけではありません。文学や音楽や絵画など、ひとりひとりが持っているあらゆる賜物を活かして神知識を表現することや、この神のすばらしさと福音を表現していくことは、生ける神学には本質的に重要なことです。
神学し続けること 「理解し」「生活し」「表現する」という神学の営みは、世の終わりまで続きます。なぜなら、神学の対象は永遠なるお方だからです。この大いなるお方を、私たちは理解し尽くすことも、味わい尽くすことも、語り尽くすこともできません。 しかし、私たちはむしろこの大いなる神に「知られている」(ガラ 4:9)ことを喜びましょう。そして、聖霊の助けを乞い求めながら、このお方を喜びほめたたえつつ(エペ 3:14~21)神学していきましょう。
吉田 隆 神戸改革派神学校校長。甲子園教会牧師。 神戸改革派神学校、プリンストン神学校、カルヴィン神学校卒業(Ph.D.)。 著書に『カルヴァンの神学と霊性』、『ハイデルベルク信仰問答』などがある。
|