イム・シヨン Ι ドイツ、ハイデルベルク大学 神学修士 及び 博士、聖潔大学校 客員教授
エゼキエル書は難しい書物か エゼキエル書が難しく感じられる理由は、その多様な記述方法と内容のためでしょう。エゼキエル書の黙想に先立ち、このように「難しい」という評を「興味深い」という評にするためには、全体像を見なければなりません。各部分の位置づけを見つけることにより、理解と黙想が豊かになり、各部分の相互の関連性の中で拡大された全体像(意味)が見えてくるようになります。
エゼキエル書の全体像-さばきと救い エゼキエル書の核心内容は、さばきと救いです。エゼキエル書におけるさばきは神の不在であり(10:18~19)、反対に救いは神の臨在です(43:1~5)。主の栄光が神殿から去ったので、イスラエルのさばきはすでに実行されました。主の臨在を失った神殿の崩壊は、当然の結果です(33:21)。神殿を失った地は汚れ(36:17)、民は当然散らされます(36:19)。このように、「神の喪失→神殿の喪失→地の喪失」という流れは、「神の契約の民であることの喪失→契約の維持機能の喪失→契約の民としての生活基盤の喪失」を意味します。契約の民ではないイスラエルに、契約維持のための神殿は無意味であり、生活の基盤となる地も必要ありません。主の栄光が神殿を去ることによるさばきは、イスラエルが散らされるという最終結果を生みます。 しかし、エゼキエルはここで止まらず、去った主の栄光が、散らされた民とともにあると告げます(1章、11章)。イスラエルにさばきが下り、その結果民は散らされましたが、絶望ではありません。なぜなら、イスラエルが受けたすべてのさばきは、契約の中で起こっているからです。主の栄光は去りましたが、神は契約の民となおもともにおられ、建物としての神殿は崩壊しましたが、契約の民の象徴である聖所は、神の臨在によって維持されます。ですから、エゼキエル書の長いさばきの話は心が痛みますが、感謝なことなのです。契約が破棄されたのではなく、契約の中でのさばきなので、希望があります。さばきの中での契約の有効性は、すべてを失ったイスラエルを、新たな出発が可能な“振り出し”へと戻します。ですから、「転換への回復」をさばきの中で期待するのです。ここに神のあわれみがあります。去られた神は、戻って来られるために、イスラエルとの新しい関係を備えられます。離れていたイスラエルの心を立ち返らせ、「肉の心」を与え、「新しい霊」、つまり神の霊を注いで、回復された契約を破棄できないようにされます(11:19~20;36:26~27)。そしてイスラエルが破った契約を「とこしえの契約」(16:60~63)、「平和の契約」(34:25;37:25以降)へと更新されます。更新された契約の中で「散らされた」イスラエルを再び集める(36:24~31)という、救いの歩みが始まります。「散らされる」「集められる」というテーマのもと、イスラエルの民を集めるための前提条件が示されます。汚された地の回復に対する約束(36:32~36)、壊れた神殿再建に対する約束が続き(40:1~42:20)、回復された地に建てられた新しい神殿に、神の栄光が再び戻ってくると述べることにより、先立って進めてこられた救いの“振り出し”に向かうすべてのさばきが、その逆の順序で回復され、転換される望みを生み出すのです。 エゼキエル書は、「アドナイ・シャマ」という叫びで終わります。これは「主はそこへ」という意味で、主がイスラエルよりも先にバビロンを去り、約束の地へ移動されたことを表しています。神が直接、神殿のある地へとイスラエルを導かれるのです。神殿に戻ってこられた主の栄光により、神殿から水があふれ出し、すべての地は蘇生します。そして、蘇生した地に再びイスラエルの民が戻り、回復の中心である神殿に臨在される神の栄光は、永遠に去ることがないでしょう。神の臨在の方向である神殿の東側の門を閉めよという命令が、これを確かなものとします(44:1~3)。ですから、エゼキエル書で神の不在によるさばきは、神の臨在による回復を暗示させるものなのです。復元された回復は、「新しい霊」を注いでくださる神の恵みのみわざと(11:19)、神殿から去ることはないという約束のゆえに、再び壊されることはないでしょう。イスラエルが神の民となり、主が彼らの神となる(11:20)という契約の関係は、永遠に続くでしょう。さばきによる苦難やあらゆる逆境の中にある私たちの人生も、このような恵みの召しと確かさの中にあります。ですからエゼキエル書は、神中心の回復を夢見る希望の書として読むことができるのです。
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