キル・ソンナム Ι 高麗神学大学院 新約学教授
教会論で知られているエペソ人への手紙は、実は教会論よりも救済論に関して多くを教えている「救いの書」です。パウロがこの手紙を書いた目的は、エペソの聖徒たちに救いの栄光を思い起こさせ、彼らが救われた聖徒らしく生きてほしいと願ったからです。ですから、この書を正しく理解するためには、「救いと救われた聖徒の生活」という観点で読むのが望ましいでしょう。
栄光の救いを受けた素晴らしさを味わう存在 エペソの聖徒たちは、パウロから福音を聞き、パウロの教えを受けて霊的に成長しました。しかし、パウロが去ると、次第に霊的活力を失い始めます。アルテミス崇拝の中心地であったエペソでクリスチャンとして生きるのは大変なことでした。家族や隣人や仲間たちから冷遇されたからです。そのような状況の中で、彼らの神の民という認識は薄れ、救いの感激も冷めていきました。パウロはそのように世と妥協した人々に対し、異邦人のようにむなしい心で歩んではならないと警告しています(4:17)。 パウロは彼らを神に立ち返らせるために叱責する代わりに、救いの賜物を与えてくださった神をほめたたえ、彼らに救いの栄光を思い起こさせました。神は彼らを世界の基の置かれる前からキリストにあって選び、あらかじめ定めておられました。神の子としてくださり、彼らの罪を赦されました。彼らは救いの福音を聞き、イエスを信じて約束の聖霊によって証印を押され、救いの喜びを味わうようにされました(1:13)。パウロは、エペソの聖徒たちが受けた救いを繰り返し強調しています。彼らは以前は罪過と罪の中に死んでいましたが、あわれみ豊かな神が彼らをキリストとともに生かし、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました(2:4~6)。悪しき霊に従っていた者たちが、いまやキリストとともに栄光を味わう存在となったのです。
救われた者よ、神の子どもらしく生きなさい エペソの聖徒たちが神の恵みによって救われたことを、パウロが繰り返し述べた目的は何でしょうか。それは、彼らが救いの恵みの喜びを回復し、救われた聖徒としてふさわしく生きるためでした。そのためには救いの栄光について、頭だけにとどまらず、心の底から悟る必要があります。それでパウロは、彼らのために繰り返し祈っています(1:15~19;3:14~21)。救いの栄光は、ただ聖霊の働きによってのみ悟ることができるからです。エペソの聖徒たちが救いの栄光を心の奥深くで悟り、救いの感激を回復するなら、外部からの圧力に打ち勝ち、神の民らしく生きることができるのです。 パウロはさらに、救われた聖徒の生活に関しても述べています。まず、救われた聖徒の人生の目的は、神の栄光をほめたたえることだと教えています(1:14)。そのためには口先だけでなく、良い行いにより(2:10)、教会の一致を熱心に保つことにより(4:1~6)、キリストのからだである教会を建て上げなければなりません(4:7~16)。また、教会の中で、おのおの隣人に対して真実を語り、互いに親切にしなければなりません(4:25~32)。また、世の中で、あらゆる善意、正義、真実の実を結び、光の子どもらしく歩まなければなりません(5:8~9)。そして、神をほめたたえる生活は、家庭で夫婦が互いに愛し合い、親と子どもが愛し合う姿に現れなければなりません(5:22~6:4)。 次にパウロは、救われた聖徒の究極的な目標は、神にならう者になることだと教えています(5:1)。神にならうとは、神が私たちを赦してくださったように、互いに赦し合い(4:32)、キリストが私たちのために神へのささげ物となられたように、愛によって歩むことです(5:2)。不品行や汚れ、むさぼりを捨て、聖く生きることであり(5:3)、生活のすべての領域で、神のように愛する者となり、聖い者となることです。神の恵みによって救われた者が、神にならうどころか、異邦人のように生きているのなら、それは大きな過ちです。救われたと言いながらも不品行で、汚れた行いを続け、肉の欲望のままに生きる者は、神の愛を知らない者であり、キリストと神との御国を相続することはできません(5:5)。真に救われた人は神の愛を知り、不品行や汚れから離れます。そして、神を愛し、神の御心を行って生きるのです。また、生活のあらゆる所で神の栄光をほめたたえながら、より一層神にならいながら、聖く変えられていくのです。
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