チョン・ソンミン Ι バンクーバーキリスト教世界観大学院 教授 世界観及び旧約学教授
列王記を見れば、神の民がなぜ滅びたのかがわかります。どうしてエルサレムと神の家である神殿が、外国人の手によって壊されたのでしょうか。それは、イスラエルが神の律法に従わず、神の民にふさわしい生き方をしなかったからです(Ⅰ列 9:6~9、Ⅱ列 17:13~20)。ところが、この問題はそれほど単純ではありません。以前、神がナタンを通してダビデに彼の王座をとこしえまでも堅く立てると告げられたからです(Ⅱサム 7:13、16)。罪を犯した場合、父が子を叱るように民をしばし懲らしめたとしても、神はその「恵み」を完全に取り去ることはないと言われました(Ⅱサム 7:14~15)。しかし、イスラエルは滅んでしまいます。恵みの約束はどうなったのでしょうか。
律法と恵みの躍動的な関係 ダビデの契約(Ⅱサム7章)は、無条件の約束のように見えますが、ソロモンと神の夢の中での対話には「~なら」という条件がついています。「また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう」(Ⅰ列 3:14;3:6参照)。列王記第一の9章では、神の律法に対する従順の必要性をさらに強調しています。ソロモンが神殿と王の宮の建築を終えたとき、神はソロモンに再び現われ、神殿に神の御名をとこしえまでも置くと明言されました(9:2~3)。そして「あなたには、イスラエルの王座から人が断たれない」(9:5)と、ダビデに対する約束を直接引用し、その約束に「~なら」(9:4)という条件をつけられます。神の命令に従い、そのおきてを守らなければならないというのです。ところで、肯定的な結果やその条件(4~5節)よりも否定的な結果やその条件のほうが、はるかに長く告げられています(6~9節)。イスラエルや神殿が守られるのは、神の無条件の恵みではなく、律法に対する全き従順によるものなのです。しかし、南ユダの不従順にもかかわらず、神はダビデに告げられた約束を、完全に取り除きはしませんでした。アビヤムはさばかれるべき悪い王でしたが、神はダビデに「一つのともしび」を与え、アビヤムの子が王位を継ぐようにされ、エルサレムを堅く立てられました(Ⅰ列 15:4)。北イスラエルで最も悪い王であったヨラムの時代でも、神はユダを滅ぼされませんでした。ダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えると約束されたからです(Ⅱ列 8:19)。北イスラエルの場合も、「水に揺らぐ葦」(Ⅰ列 14:15)のような悪い王朝が続きましたが、すぐには滅びませんでした。神がアブラハムの契約ゆえに、北イスラエルにも恵みを施されたのです(Ⅱ列 13:23)。神の恵みは彼らを守りましたが、恵みは不従順という罪を限りなく覆いはしません。神は不従順が続く罪を見過ごされず、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、南ユダに対する恵みも途絶えました。エルサレムの神殿は壊され、神殿の中の器具も奪われてしまいます。ダビデ王朝は滅び、王や王子たちはバビロンの捕囚となりました(Ⅱ列 25:8~21)。ゼデキヤ王はその子たちが処刑される現場を目の当たりにさせられ、目をつぶされてバビロンに捕らえ移されました(Ⅱ列 25:7)。ソロモンに告げられた「~なら」の警告が、現実のものとなってしまったのです。では、すべてが終わり、望みはなくなったのでしょうか。
新たなチャンスを与える神 列王記の最後の4つの章では、不従順により荒廃した地に芽生えた恵みの新芽を見ることができます。エホヤキンが釈放されて囚人服を脱ぎ、バビロンの王の前で食事をし、必要な物を支給されることは、些細なことではあっても新たな希望の象徴です(Ⅱ列 25:27~30)。まだ薄暗い夜明けでも、神の時が来れば、再び恵みの太陽が昇るのです。神の民には、新たなチャンスが与えらます。神の民は恵みによって立てられますが、彼らは律法に従って神の民にふさわしく生きなければなりません。クリスチャンの人生は、このような恵みと律法の躍動的な緊張感の中で成熟していくのです。私たちの人生そのものが恵みですが、恵みに拠り頼んだ不従順は、自らさばきを招くことになります。しかし、それで終わりではなく、神の恵みはさばきの後にも私たちに新たなチャンスを与えてくれます。再びチャンスが与えられるとき、またもや不従順によって滅びてはなりません。これからは愛によって働く信仰(ガラ 5:6、Ⅰテサ 1:3参照)だけが私たちを生かすのです。
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