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キリストに立ち返る日本を夢見て
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神にある喜びを 慕い求めるべき理由 |
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ベツレヘム・バプテスト教会 前 主任牧師 ジョン・パイパー
私たちは、神様に対する私たちの愛と、神様への従順が同じものであるかのように勘違いすることがよくあります。イエス様は、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハ 14:15)と言われました。それで私たちは「神を愛するということは、神に従うことなのだ」と考えるのです。しかし、そうではありません。このみことばは、「もしわたしを愛するなら、わたしの戒めに従うでしょう」と言っているのです。つまり、まず神様への愛があって、その愛が実を結び、従順という行動に至るということです。「神様を愛する」ということは、神様が私たちにとって何よりもかけがえのない方だと思うようになることです。イエス様が「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタ 10:37)と言われたように、もしあなたの家族が神様よりも大切であるなら、それは神様を愛しているとは言えません。神様を愛するということは、神様に喜びを見つける、神様によって満たされるということなのです。神様ご自身が私たちの喜びになるのです。ですから、私たちは神様による満たしをいつも慕い求めなければなりません。 きょうは8つの聖書的観点から「なぜ私たちは、神様による喜びを常に慕い求めなければならないのか」について論証してみたいと思います。 詩篇16篇11節で、ダビデは次のように歌っています。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には楽しみがとこしえにあります。」私たちはこのような境地を慕い求めなければなりません。喜びで満たされ、それがとこしえにあるとしたら、これより素晴しいものがどこにあるでしょうか。
第一に、聖書が繰り返し命じているからです。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩 37:4)。これは命令です。ほかの個所では「喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ」(詩 100:2)と言っています。神様は私たちが落胆しながら仕えることを喜ばれません。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリ 4:4)というように、聖書は何度も繰り返して主にある喜びを慕い求めるよう命じています。
第二に、私たちが神様に喜びを求めなければ、神様は私たちを脅します。「…あなたの神、主に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、…主があなたに差し向ける敵に仕えることになる…」(申 28:47~48)。C.S. ルイスは著書の中で「私たちが真剣に喜びを求めることは、天における最重要事項である」と言っています。ここで言う「真剣」という言葉は、「喜び」の反対ではありません。「喜び」の反対は「悲しみ」だからです。私たちは真剣に喜びを求めなければなりません。そうでなければ、神様は私たちに恐ろしいことをされると脅しておられるからです。
第三に、救いの信仰の本質が、神にあって常に喜びを求めるようにと教えています。「救いの信仰」とは何でしょうか。「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハ 6:35)。ここで「信じる」という言葉の意味は何でしょうか。イエス様を信じることは、霊的にイエス様に近づいてたましいが満たされるなら、飢えも渇きもなくなるいうことです。イエス様を信じるということは、ただ私たちの考え方を変えるだけでなく、イエス様がどんな方であるかを知り、その素晴らしさを実感することなのです。私たちは、この満たしを常に求めなければなりません。
第四に、悪の本質が、神様にある喜びを求めることを教えてくれます。「悪の本質」とはどのように定義付けられるでしょうか。「天よ。このことに色を失え。おぞ気立て。干上がれ。―主の御告げ―わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」(エレ 2:12~13)。悪の本質とは、私たちのすばらしい神様が泉を与えてくださり、私たちはそれを味わったのに、それを吐き出す、というようなものです。神様にある喜びを拒むということは、神様に背を向け、この世に井戸を掘って泥をすくい出し、そこから水を飲もうとするようなものなのです。つまり、たましいを満たしてくれる神様に背いて、ほかのものに喜びを見つけることが、悪の本質なのです。世界中の悪は、人々が神様に喜びを見つけようとしないために起こっています。ですから、このことに真剣に取り組まなければなりません。
第五に、イエス・キリストに立ち返るということの本質が、神様にある喜びを求めることを教えてくれます。「イエス様に立ち返る」とはどういうことでしょうか。イエス様は「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタ 13:44)と言っておられます。この人は本当に多くのものを持っていました。しかし、宝を見つけたとき、「この宝は自分のすべての持ち物よりも価値がある」と考え、それを隠しておいて、畑を買おうとしました。隣人はみな、彼が狂ったと思ったことでしょう。彼がすべての持ち物を売り始めたからです。そしてこの人はその畑を買いました。天の御国とはそのようなものです。この人は大喜びで家に帰り、持ち物を全部売り払ったとあります。もしその宝が本当にすばらしいものだったら、その宝のためにすべてを失ってもかまわないのです。ローマ人への手紙8章18節に「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」とあります。世間から見ると、彼はすべてを失ったと思われたかもしれませんが、本当は“得た”のです。彼にとってそれは喜びだったのです。「イエスに立ち返る」とは、その宝の価値に気づき、そこに完全な満足を得るということです。キリストが与えてくださるものと、この世が与えるものとは、比べることがでません。
第六に、「自分を否定しなさい」という命令が、神にある喜びを求めることを教えてくれます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです」(マコ 8:34~35)。みなさん、自分のいのちを救いたいですか。では失ってください。本当に満たされた人生を送ることを妨げているものをすべて捨ててください。パウロは「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました」(ピリ 3:7)と言いました。自分を否定するというのは、キリストにある喜びを求めないということではありません。キリストにある喜びから引き離そうとするすべてのものを否定する、それが聖書的な自己否定です。私は、わが家の5人の子どもたちと、どんな音楽を聴くべきかについて話し合うとき、よくこう言ったものです。「もしその音楽を聞くことによって、もっとイエス様を愛し、イエス様にある喜びを求めることができるのなら、聞いてもいいよ。」私は世の中にあるすべてのことに関して、同じことを言いたいのです。
第七に、神様にある喜びを求めなければ、私たちは人を愛することができません。「人を愛する」とはどういうことでしょうか。「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです」(Ⅱコリ 8:1~2)。2節にあるように「満ちあふれる喜び」が、惜しみなく施す行動へとつながったのです。彼らは何を喜んでいたのでしょうか。神の恵みです。これがキリスト教です。あなたが本当に神様を喜ぶことができたら、自己中心的な心は砕かれ、富を惜しまなくなり、いのちがあふれ出ることでしょう。人を愛するとは、「神様の喜びが私たちからあふれ出て、ほかの人の必要を満たすこと」です。だとすれば、あなたは神様の喜びで自分が満たされない限り、人を愛することはできないのです。
最後に、神様にある喜びを求めなければ、神の栄光を表すことができません。あなたが神様によって満たされている時、最も神の栄光が表されます。あるたとえをしてみましょう。ある日、私は花束を持って家に帰り、ドアのベルを鳴らします。妻がドアを開けたら、花束を差し出して「結婚記念日おめでとう!」と言います。「まあ、素敵ね!どうして花束を買ってきてくれたの?」と妻に聞かれて、「それは私の義務だから」と答えたとすると、良くない答えですよね。もしこう言ったらどうでしょう。「きみのためにバラを買いたかったんだ。それに、きょうはベビーシッターを頼んである。二人でディナーに行こう。ぼくはきみと一緒にいることほどうれしいことはないんだ。」私がうれしいからといって、彼女が私に「自分勝手ね」と言うでしょうか。神様も同じです。あなたが天国のドアのベルを鳴らし、神様が出て来たとします。神様が「なぜ来たのだ」と聞かれるなら、「クリスチャンだからです」と答えますか。そう言う代わりに、「あなたの御前には喜びがあり、あなたの右にはとこしえに楽しみがあります。ほかにいたい場所があるでしょうか」と言ったとしたら、神様は「あなたは自分勝手だ」と言われるでしょうか。いいえ、そうは言われないでしょう。もしあなたが神様によって満たされるなら、神の栄光があなたを通して表されるからです。「心を尽くして主なる神を愛せよ」という命令の意味は、常に神様によって喜び、満たされることを求めなさいということなのです。
ジョン・パイパー 1946年生まれ。1980~2013年までベツレヘム・バプテスト教会主任牧師。著書に『イエス・キリストの受難』、『聖書が語る真実のイエス』(以上、いのちのことば社)などがある。
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