東京グレイス福音教会 主任牧師 石坂孔英
私たちの新しい朝は、文字どおり新しい希望を予感させるもののはずです。しかし、エレミヤは毎朝、過去の苦い記憶に悩ませられていたようです。「これを思い出しては沈む」(哀 3:20)と言っています。これは、私たちにもよくある経験ではないでしょうか。そのような中で、エレミヤはきょう生きていることは「主の恵みによる」と、主に感謝しています。 「朝」はしばしば戦いの時でもあるようです。その大切な「朝」をどのように過ごしているでしょうか。大切な一日を自分の「気分」によってスタートしてはいないでしょうか。気分まかせのスタートは危険です。世間ではよく「朝、新聞を読め」と言います。しかし、この方法はこの世にフィットさせますが、霊的な目を覚ますことはできません。「信仰は聞くことから」始まる(ロマ 10:17)とあるように、「神のことば」が霊的な感覚を目覚めさせ、生ける主との交わりを豊かにするのです。しばしば、自分の「気分」は、神の素晴らしい賜物である一日を害することさえあります。ですから、「気分」を「神のことば」に置き換えるのです。毎朝、この「作業」を続けるならば、みことばに信頼し、主に期待する日々を迎えることができるようになります。エレミヤも自分の気分をみことばに置き換えて「主の恵みは朝ごとに新しい」と告白しました。「思い出しては沈む」時にそうしたのです。 そうするとき、私たちは主の語りかけに敏感になります。主の語りかけは私たちの信仰生活を非常に豊かなものにしますが、すぐには敏感にならないものです。敏感さを育てる一つの方法は、みことばに「応答」することです。主はそれを待っておられます。「模範的な回答」でなくていいのです。自分のありのままの姿を主の前にさらけ出してみるのです。主はそれを喜ばれます。 また、礼拝説教を通して、会衆が主の語りかけに耳を傾けるとき、その説教の中で聖霊が語ってくださる御声を聞き取ることができるようになります。聖霊が個人的に語ってくださるメッセージに敏感になるのです。 主の語りかけに耳を傾けようとするとき、ある妨げの思いがやってくることがあります。それは、神の前にその人を訴えて、神の子どもであることを疑わせ、語りかけを聞き取るクリスチャンとしての自信を失わせる別の語りかけです。そのようなときは、直ちに十字架に帰ります。また、信仰によって義とされていることを信じましょう。キリストの贖いのゆえに神の義とされていることを信じましょう(Ⅱコリ 5:21)。 失敗した時や罪を犯した時でさえ、神は語りかけ続けるのです。アダムとエバが罪を犯した時に神は「あなたは、どこにいるのか」(創 3:9)と呼び続けました。主は実に今も私たち罪人を捜し、呼びかけているのです。ですから大胆に主の語りかけに耳を傾けましょう。 自分の調子の良い時にはついつい朝のデボーションをパスしてしまいがちですが、そのような時から習慣づける必要があります。そうすれば、気分が落ち込んだ時にも、自然にみことばに目が向くようになります。 神のことばは生きていて、読む者の心を判別します。みことばを読むときには、「聞く者」として神のことばの前に立ちます。また、自分の考えに合わないといって切り捨てず、みことばから目を離さないようにします。主観的に判断せずに、みことばをそのまま読むことが自分の心の目を正しい方向へ向けてくれます。 主はペテロに天から語りかけてこう言いました。「さあ、ほふって食べなさい」(使 10:13)。全世界に福音を宣べ伝えようとする主のご計画をペテロに啓示した瞬間でした。ペテロはその主の語りかけを最初は受け入れることができませんでした。その理由は、その内容が今までペテロが想像したことのないもので、習慣的にもあり得ないことだったからです。しかし、主はそのように語りかけたのです。しばしば私たちは、自分の教会文化や伝統によって主の語りかけを「門前払い」にしてしまいます。語りかけは、当然神のことばによって吟味されなければなりませんが、その際に気をつけるべきことは、福音以外のものによって吟味しないようにすることです。教会の文化は有益で大切なものですが、主のことば以上のものではありません。しばしば、このことが自由でダイナミックな宣教を阻害しているかもしれません。そういう意味では、指導者は主のことばを注意深く研究し、教会文化と伝統、教派主義と純粋な福音との間に一線を引かなければならないように思います。 福音は全く異なった二つのものを一つにします。福音は私たちの互いの間の隔ての壁を打ち壊します。ただ神に義とされたことに満足して一つとなる必要が、現代の教会にはあるのではないでしょうか。
石坂孔英(いしざか よしひで) 1951年東京生まれ。 東京グレイス福音教会主任牧師。関西聖書学院、 米国ダラスCFNI学院卒業。中央大学法学部卒業。
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