ユ・スンウォン ● デトロイト韓国人連合長老教会 主任牧師
似ているようで似ていないテトスとテモテ テトスへの手紙は、内容がテモテへの手紙第一・第二と似ています。受取人の名前が違うだけで、さほど独自性がないように思われます。しかし、この二つの手紙をより詳しく比べてみると、テトスへの手紙だけの特性が輪郭をあらわします。 パウロはテトスのことを、テモテと同様「真実のわが子」と呼びました(テト 1:4、Ⅰテモ 1:2)。パウロは彼らを実の子のように思っていました。しかし、パウロが実の子と定めた二人の性格と役割には、多少違いがあります。 彼らは二人とも、初代教会の深刻な神学的論争を起こした割礼問題に関わっていました。テモテは、母親がユダヤ人、父親が異邦人という家庭の息子でした。それでパウロは、割礼論争を鎮めるために、テモテに割礼を受けさせました(使 16:3)。 一方、純粋な異邦人テトスは、パウロと共にエルサレムに行ったとき、ユダヤ主義者たちに割礼を強要されましたが、パウロがこれを強く拒み、律法主義と戦う象徴として立てられました(ガラ 2:3)。テモテが周りの人々との葛藤を避ける同和の働き人として用いられる一方で、テトスは福音と自由を守るために、むしろ葛藤を先鋭化する働き人して用いられました。これはテトスが相対的に強かったことを暗示しています。
パウロの牧会問題の解決者テトス さまざまな面で、テモテは気が小さく見えるほどに体も心も弱かったようです(Ⅰテモ 4:7, 12、Ⅱテモ 1:4)。一方、テトスからは問題を見抜く指導力が感じられます。パウロは問題のあったコリント教会にテモテを送りましたが(Ⅰコリ 4:17)、問題は解決しませんでした。しかしその後、テトスがコリントに行って来ると、この問題は雪解けを迎えます。そのときのパウロの心はこのように描写されています。「…外には戦い、うちには恐れがありました。しかし、…神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。…あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました」(Ⅱコリ 7:5~7)。これについて、パウロは「テトスの喜び」(Ⅱコリ 7:13)とまで言いました。 「解決者」テトスは、このようにパウロの切実な心情をそのまま心に抱いた(Ⅱコリ 8:16)腹心でした。パウロは、彼の指導力について非常に肯定的に評価しています。「テトスについて言えば、彼は私の仲間で、あなたがたの間での私の同労者です。兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者、キリストの栄光です」(Ⅱコリ 8:23)。
いつわりの教えから福音を守れ それで、パウロは困難な宣教地をテトスに任せ、それに関する勧めがテトスへの手紙です。エーゲ海の南側にあるクレテ島は、働きが非常に困難な場所でした。パウロは、囚人としてローマへ連行された後、ローマで釈放され、クレテ島へ戻って宣教したものと思われます。そのとき、パウロはテトスを連れて行き、そこを去るときにテトスを残して事後処理を任せました。 クレテ島の社会についてパウロは、古代ギリシヤの七賢人の一人とされるエピメニデスの言葉を引用しています。「『クレテ人は昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう。』この証言はほんとうなのです」(テト 1:12~13)。福音を伝えて教会を建てましたが、これほどまでの「文化批評」を引用したのを見ると、その環境が厳しかったことは明らかです。ここには強い指導力のあるテトスが必要でした。それで、テトスに単刀直入に「きびしく戒め」(1:13)るように、また「十分な権威をもって話し」(2:15)だれにも軽んじられないように命じています。権威主義は良くありませんが、その状況では、天からの権威が明確に示されなければなりませんでした。それで「確信をもって話す」(3:8)、断固として揺るがない指導力が求められました。 テトスの指導下で、三つの課題がありました。まず初めに、テトスひとりではこの働きは難しいので、非常に不道徳なクレテ人たちに対抗できる霊的指導者たちを立て、教会の堅実な制度を保つ必要がありました(1:5~9)。第二に、悪い敵対的なクレテ社会の中で、聖徒たちが光と塩の役割を果たせるよう、よく教えて訓練させる必要がありました(2:1~3:7)。第三に、クレテ島に浸透した異端的な教えが教会を腐食させないよう、正しい教理でキリストの福音を守らなければなりませんでした(1:10~11, 14~16;3:9~11)。私たちもこの書から「テトスの喜び」を読むことができます。
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