張在潤 ● 東京オンヌリビジョン教会 担当牧師
ヨハネ3章にニコデモという人物が現れます。彼はユダヤ人の指導者であるパリサイ人で、人々から先生と呼ばれていました。彼はイエスが十字架で死なれたとき、多くの香料でイエスの死体をきよめるほど経済的に余裕のある金持ちでした。しかし、イエスが来られ、福音が伝えられ、奇蹟が起こり、あらゆる病人がいやされ、悪霊が追い出されるのを見るうちに、彼に霊的な葛藤が生じ始めました。今まで自分の人生は完璧だと思ってきましたが、そうではないと悟り、悩みに陥りました。そして、人々の目を避けて、夜暗い時間にイエスを訪ねました。ユダヤ人の指導者であるパリサイ人が体面を捨てたのです。そして、イエスとニコデモの対話が始まりましたが、彼はイエスの話を全く理解できず、葛藤は一層深くなりました。 教会出席25年以上の私もニコデモと同じでした。私はニコデモのように成功した者ではありませんが、霊的な葛藤は彼と同じだと思いました。私は教会に通う宗教人として生きるのか、それともイエスを受け入れ信じるのか、という葛藤に陥りました。宗教人のまま残るのは絶対だめだと思い、何とかしなければならないと思いました。「人は、新しく生まれなければ」(ヨハ 3:3, 7)という主のことばが私の心を強く打ちました。その後、私は毎朝、早天祈祷の時「イエス様!私に会ってください!」というのが一番大事な祈り課題となりました。一日も欠かさず3年間祈りましたが、何の声も、幻も、しるしもありませんでした。早天祈祷をあきらめようと思いましたが、この3年間が無駄になると思って祈り続けました。そのまま4年、5年と過ぎていきました。6年目が終わる頃のある日、主が私の所に来られるのを感じました。ついに「会える」と思い、喜びが込み上げましたが、突然私の口から「イエス様、私の所に近づかないでください」という言葉が出ました。私の中の汚れた臭いが主の衣に浸み込むかと思い、心配になったのです。私が十分に悔い改めてから聖い方と会うのが礼儀だと思いました。その後、毎朝イエスが来られるのに、一週間もお断りしました。しかし、私は何をしても汚れている者だから「ありのまま主の御前に行こう」と決心し、ようやく主に会うことができました。夢か、幻か、現実かはわかりませんが、出会ったことは確かでした。そして、結論的に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることがなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハ 3:16)というみことばが与えられました。
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