イ・ヒョンウォン ● バプテスト神学大学 神学科 旧約学教授
クリスチャンはマラキ書を「十分の一献金を強調する書」だと理解しがちです。しかしマラキ書は、バビロン捕囚以後、ユダの民の信仰が揺るがないようにと与えられたみことばです。預言者が六つのメッセージを語る中で、民が反問し、神がマラキを通して答えるという形になっています。ですから、この書をよく理解するためには、預言者(または神)と民がやりとりする質問と答えを中心に読む必要があります。
1.どのように私たちを愛されたのか(1:2) 神はユダの民を愛していると宣言しました。しかし彼らは、神の愛を信じることができません。彼らの状況がそれほど悲惨だったからです。すると神は、ヤコブの時から変わることなく彼らを愛してきたことに目を開かせせます(1:2~5)。この神の返答を通して、どのような場合でも、神の愛を疑ったり忘れるべきではないことを悟らされます。
2.どのようして主の名をさげすんだか(1:6) これは主の御名をさげすんだという指摘に対してユダの民が反問したものです。主は、完全でないささげ物をささげておいて、うるさいと感じていた(1:13)彼らの姿勢を指摘し、それが主の御名をさげすむことだと言います(1:6~14)。ユダの民は、神にささげ物をささげる生活は神を父、また主人として敬うことであると悟れず、神への礼拝こそが最優先であることを忘れました。神の臨在の中でささげるささげ物と礼拝の感動を失いました。ささげ物の回復に関するマラキ書のみことばは、霊とまことによってささげる礼拝こそが神を敬う行為であり、人生のいやしと回復を経験する機会であることを思い起こさせ、礼拝を優先することを忘れないよう強調しています。
3.なぜなのか(2:14) 神が結び合わせた夫と妻が愛し合って家庭を築くことが神の御心です。しかし民の中には、異邦の神を信じる女と再婚しようと自分の妻に離婚を強要し、それに応じなければ暴力をふるう者がいました。それでも彼らは、何事もなかったかのごとく主にささげ物をささげました。神はそのようなささげ物を止めるよう言われます。「なぜなのか」という反問に対して、妻への暴力を止めるよう命じます(2:16)。家庭内での不誠実を指摘するこの個所は、神が願われる聖い生活は家庭にも及んでおり、クリスチャンは家族に誠実に仕えるべきであることを表しています。家庭内暴力や家庭崩壊が多く見られる今日、神を信じる家庭が天国のモデルになってほしいと神は願っておられるのです。
4.どのようにして、主を煩わしたのか(2:17) ユダの民がことばで神を煩わしたというマラキの指摘に対し、民はこのように反問しました。すると神は、彼らが「悪を行う者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか」(2:17)と言ったことを指摘します。神はユダヤ民族が主の義と摂理を否定したり不平を言うのを聞かれ苦しまれました。私たちはどんな状況でも、神を恨んだり、不平を言ったりして神を苦しめてはなりません。
5.どのようにして、私たちは帰ろうか(3:7) この対話の主題は悔い改めです。ユダの民が悔い改めて立ち返ることを願われる神に、民は「どのようにして、私たちは帰ろうか」と反問します。原文は「私たちが何に対して悔い改めなければならないのですか」、つまり、悔い改めることがないのに、何を悔い改めよというのかという意味です。神は、例として、彼らの十分の一と奉献物が完全ではないと語られます。聖徒はいつも神の御心どおりに生きるよう最善を尽くし、それでも足りないところがないか振り返らなければなりません。そのために神のみことばと聖霊の導きにいつも耳を傾けなければなりません。
6.あなたに対して、何を言いましたか(3:13) 2章17節と似ていますが、もっと強い表現です。ユダの民は苦しい状況になると、神の義を問題視し、不平を言って神を煩わせました。神は主のしもべたちを通してそのような生き方をやめさせようとしましたが、むしろ彼らはさらに強く神の働きや摂理に対して問題を提示しました。ユダの民は熱心に神に仕えても、報いがなければ不平をもらし(3:14~15)、主に敵対しました。しかし神の民は、どんな状況下でも神への恨みや不平を慎み、すべてのことを働かせて益としてくださる主の主権を認めて忍耐し、絶えず祈りと感謝をささげなければなりません。
以上の質問中心の構成からはずれたメッセージがあります。それは、祭司の務めに関する教訓(2:1~6)、主を恐れる者たちに対する祝福の約束(3:16~4:6)です。これは、神を恐れる者に今も与えられている約束です。マラキ書を通して神を敬うことを学び、主の祝福を味わう豊かな人生となりますよう願います。
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