日本CGNTV 開局6周年特集より
1912年、高知県で生まれた田内千鶴子は、朝鮮総督府の官吏であった父について7歳で木浦に渡り、文化の違う朝鮮半島での暮らしが始まりました。木浦で高校を卒業した千鶴子は、母校で音楽教師として働くようになり、それと同時に木浦の孤児院「共生園」でボランティアを始めました。そのようにして彼女と韓国との深い縁が始まりました。 当時、朝鮮半島は日本帝国の圧政下にあり、貧しさと戦争により町は崩壊し、人々の心は希望もなく堅く閉ざされていました。そんな時代に、ユン・チホ伝道師は、孤児や乞食の世話をし続けた人でした 。彼は小作農の家に生まれ、貧しくて学校にさえ行けませんでしたが、アメリカ人伝道師を通して福音を知り、宣教師の助けで学校を卒業し、のちに木浦へやって来ました。木浦で伝道活動をしているとき、道にあふれている孤児たちを家に連れて来て一緒に暮らし、「乞食大将」と呼ばれるようになりました。そして、しばらくして彼は、孤児院「共生園」を建てました。 共生園でボランティアを始めた千鶴子は、そこでユン伝道師に出会い、プロポーズされますが、乞食大将と呼ばれる韓国の伝道師と日本人の官吏の娘の結婚に、周りのすべての人が反対しました。しかし、信仰深かった千鶴子の母の「結婚は国と国がするものでありません。人と人がするものです。天の御国では韓国人と日本人の区別はないのです」ということばを聞いて、千鶴子は結婚を決意しました。 共生園の子どもたちは、ユン伝道師と千鶴子に愛されて育ちました。千鶴子は幼い頃に習ったオルガンで共生園の子どもたちに音楽を教えました。子どもたちが家族との別れの悲しみやひもじさに苦しむとき、オルガンを弾いて一緒に歌い、子どもたちを励ましました。そんな千鶴子の深い愛によって子どもたちの傷ついた心は少しずついやされていきました。周りの人々も、子どもたちに対する千鶴子の献身的な愛の姿に心を打たれました。 しかし1950年に朝鮮戦争が勃発し、ユン伝道師は「李承晩政権下で区長を任され、さらに妻が日本人」という理由で人民裁判にかけられてしまいます。かろうじて一命をとりとめましたが、人民軍への協力を余儀なくされました。 それから1か月後、今度は木浦にやって来た韓国軍に「人民軍に協力した」という理由で再び捕らえられ、かろうじて釈放されたものの、その後ユン伝道師は消息不明となってしまいます。この時、彼は42歳でした。 一人残された千鶴子は、孤児たちを養うために、無我夢中で働きました。自らリヤカーを引き、食料を集め、夫の帰りを信じて待ちながら、子どもたちを守り続けました。孤児の数はますます膨れ上がり、待てども夫は帰って来ません。その上、日本人という偏見が彼女をさらに苦しめました。千鶴子は、日本人「田内千鶴子」を封印して韓国人「尹鶴子」として生きるようになり、日本語は一切話さず、チマチョゴリを着て、韓国語だけを話すようになりました。そんな千鶴子の唯一の慰めかつ拠り所が神のみことばでした。どんなに疲れていても、寝る前には必ず聖書を読んでから寝ました。 しかし、そんな彼女の情熱が伝わったのか、1965年、千鶴子は第一回木浦市民賞を受けることとなりました。同市知事やソウルからの各界の著名人の参列する中、木浦市民賞第一号を受賞し、千鶴子の国境を越えた愛は全国に広がっていきました。 30年間で3000人の孤児を育てた千鶴子でしたが、木浦市民賞の数年後に病に倒れてしまいます。病床でも千鶴子は子どもたちのことを心配し「一度だけでいいから、健康な体をください。共生園の働きはまだ完成していないのです。この責任を果たせるように、健康と信仰を与えてください」と神に祈りました。しかし、その祈りも空しく、1968年10月31日、田内千鶴子は56歳でこの世を去りました。いつもチマチョゴリを着て、子どもたちの前では一度も日本語を話したことのなかった千鶴子が、目を閉じる直前に残したことばは「梅干しが食べたい」という一言でした。彼女の死は韓国全域に伝えられ、彼女の死のゆえに「その日、木浦は泣いた」と伝えられるほどでした。 2012年11月9日、千鶴子の故郷である高知県では、田内千鶴子生誕100周年を迎え、千鶴子を追悼する集会が開かれました。彼女はこの世を去りましたが、彼女が残した愛の足跡は、100年が過ぎた今も、その場所「共生園」に残っています。「一粒の麦がおちて死ななければ豊かな実を結びません。」その聖書のみことばどおりに、田内千鶴子は死んでなお、その豊かな実を結んでいるのです。
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