田尻重子 ● 茅ヶ崎教会
私は61歳の時教会に導かれ、62歳で受洗の恵みにあずかり、今年で26年目になりますが、キリスト教とは無縁の家庭に育った私が、毎週礼拝を守る者とされていることの不思議を思います。私は1926年、旧満州の大連で生まれ育ちました。日中戦争、太平洋戦争と、不穏な空気が漂う時代でした。小学生の頃、ロシア人の刃物研ぎのおじさんが包丁を研ぎながら、「私の好きなイエス様は・・・」と歌っていました。以来「イエス様ってだれ?」という疑問がふくらみ、イエス様を記憶することとなりました。 その後、戦局はますます厳しくなり、女学校時代も毎日勤労奉仕があり、食料物資も乏しい中、卒業となりました。担任の先生の勧めもあり、大連双葉学院(ミッションスクール)に入学し、生まれて初めて聖書と賛美歌を手にしました。毎朝、礼拝の時間に賛美歌を歌い、聖書を学び、私はイエス様に初めてお会いしたのでした。聖書の学びは、当時はあまり理解できませんでしたが、学院生活は自由でのびのびとしており、教師や学友とも仲良く交わり、戦時下であるにもかかわらず、今思い返しても、人の世の楽園であったと思うのです。 やがて、1945年敗戦を迎え、それまでと生活が逆転して苦労し、1947年家族と共に郷里、福岡に引き揚げました。当時、その地は米軍基地となり、多くの人が働く基地内で私も働き始めました。そこで通訳の女性と友人になり、私を基地内の教会に誘い、また『リーダーズ・ダイジェスト』を貸してくださいました。その中にビリー・グラハムの記事があり、私は感動のあまり何度も読み返し、その名をしっかりと記憶しました。その頃、基地内で通訳をしていた男性と賛美歌がきっかけで交際し、やがて結婚しました。神様の導きによる結婚だと感謝しましたが、価値観の相違か、すべての面でかみ合わず、私は対人恐怖症で苦しみました。 神に助けを求める気持ちが強まる中、アメリカ人の牧師と結婚した義妹の勧めや、主の導きにより、茅ヶ崎教会に行くことになり、そこで洗礼を受けました。そして、その受洗の喜びの中で、自分本位の判断しかできない傲慢さを悔い改めました。今は主が与えてくださった『リビングライフ』により、横道にそれず、知識と霊的な面でバランスよく成長させていただき感謝しています。 キリストを知る知識のかおりを受けとめ、蓄えた御言葉を主を知らない方々に伝えるのが、残された人生に与えられた私の役目と思うと同時に、時に応じて主との出会いを備えてくださる幸いを感謝します。
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