クォン・ヨンギョン ● 崇実大学キリスト教学科 教授
ローマ人への手紙と比べると、ガラテヤ人への手紙はあまり親しまれていない書簡のようです。「行いではなく信仰」というメッセージが自分にはあまり関係がないと感じるからかもしれません。そのようなメッセージは、行いによって認められようという「的はずれ」の情熱に向けられるべきですが、実際には、私たちの問題の多くは「行いがない」ために起こっているのではないでしょうか。つまり、私たちの現実は、ガラテヤ人への手紙の状況とはまるで正反対なのです。 「律法主義」はあるかもしれませんが、実際に私たちの経験する律法主義とは、聖日礼拝、什一献金、早天祈祷会、聖書の学びなどを重要視し、そのような行為によってのみ信仰を確認しようとするものです。そんな態度は、他人への思いやりや愛よりも、厳格に人を罪に定める冷たい判断が伴います。それは、自己満足的な「行い」には執着しても、愛を必要とする「行い」には無関心な態度であると言えます。
肉に執着する愚かさ ガラテヤ人への手紙には、律法を行って義とされようとする人たちの話が出てきます。初めは堅実に信仰を守っていた聖徒たちが「敬虔の形」にとらわれすぎて、実際には「敬虔の力」を否定し始める残念な話です。彼らは、形式的な行いに執着するあまり、より重要な信仰や御霊に満たされた生活をないがしろにし始めたのです。これはいのちの源である御霊から離れ、肉によって完成されようという愚かさです(3:3)。彼らの執着する律法の行いは、信仰や御霊による従順の結果ではなく、外面的条件や規則に執着したものです。ガラテヤ人への手紙では、割礼、祭事を守り行うこと、ユダヤ人と異邦人を区別する食事の規定などが出てきます。この三つは、当時の社会において、ユダヤ人としてのアイデンティティーを示す最も顕著なしるしでした。 ガラテヤの聖徒たちは、このような外面的なものが、神の民としてのしるしだという巧妙なことばにだまされました。問題の核心は、表面的なアイデンティティーに執着して、重要な信仰の表現、すなわち御霊に従うときに結ばれる実をないがしろにし始めたことです。これは、彼らの待ち望んでいた「義をいただく望み」をあきらめる愚かな態度です。「義をいただく望み」とは、「信仰により、御霊によって」いただくものであり(5:5)、「御霊のために蒔き」、「御霊から永遠のいのちを刈り取る」ものです(6:8)。ですから、パウロは叫びます。「ああ愚かなガラテヤ人。…御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」(3:1, 3)。
ただ十字架だけを誇りなさい ガラテヤの聖徒たちを苦しめた偽善的な霊性の誘惑は、今日の私たちをも苦しめているものです。愛によって仕えることを無視しながら、信仰があるかのように見せたい誘惑です。安息日はいくらでも守れますが、プライドを捨てることは簡単ではありません。ガラテヤの聖徒たちの中で、割礼や祭事を守り行うことなどが自己否定に取って代わったようなことが、私たちにも起こりうるのです。教会生活に少しでも慣れた人ならば、彼らの偽善的な霊性は私たちの姿でもあるということに気づくことでしょう。 いのちの御霊は、いかなる世俗的な価値観によっても偽装することはできません。割礼と無割礼、男性と女性、奴隷と自由人。このような条件で区別しても永遠のいのちには至れず、食べ物を区別しても聖められるわけでもありません。このような人工的な価値観は「虚栄」であり、これを追求する人生は人よりさらに多くのものを所有し、もっと上に立ちたいという欲望を刺激するだけであり(5:26)、結局、競争する生き方にたどり着きます(5:15)。このような人生は、いのちを得られず、自ら死を招きます(5:21;6:7∼8)。今日の教会は、このような偽善的な苦い実を刈り取っているのです。 パウロはいのちの御霊によって私たちのところに来られる主を見上げるよう勧め、信仰が、そして十字架が、御霊の源泉であることを強調しています(3:2, 5, 13~14;4:5~6)。この御霊が人を生かし(5:16~26)、神が永遠のいのちによって報いてくださるのです(6:8)。値なく与えられる恵みの論理によって、神は人間が執着する無意味な価値観や、それに価値を与える私たちの競争という欲望を十字架につけてくださいます。ガラテヤ人への手紙は、その偽善的な霊性を十字架に打ちつける音であり、私たち自身の傲慢や偽善、情欲や貪欲を十字架につける音なのです(5:24)。
|