ジョン・ジュンホ ● 啓明大学 神学科(旧約学)教授
聞き入れてくださる神 子のないハンナが泣きながら神に誓願を立てて祈ると、主は聞き入れて彼女に子を授けられます。ハンナは誓願どおりにサムエルをささげて神を賛美しました。このようにサムエル記第一は、一人の女性の涙の祈り(1:10~11)と、その祈りを聞かれた神への賛美(2:1~10)から始まります。神が祈りを聞き入れてくださったので、嘆きが賛美に変わったのです。この書には最初から「聞き入れる神」のご性質が現れています。 同時に、この書は、神の御声を聞くことの重要さを悟らせます。油をそそがれ、王として立てられても、神の御声を聞かなければ王位を保てないということが、サウルを通して示されています。サウル王は神の御声に聞き従うことをせず、神に捨てられてしまいます。この時、サムエルは「聞き従うことは、いけにえにまさり」(15:22)と言い、神の御声を聞くことが何よりも重要であることを強調しました。サウルが神の御声に聞き従わないで滅びの道に向くとき、サムエルは悲しみ、神も悔やまれました(15:35)。
王の王がいても人間の王を求める愚かさ 今日を生きる人々ならば、だれでもお金の威力を実感します。しかし、神を信じる人ならば、神がすべての時代の王であり、今日も私たちの王であると告白しなければなりません。この事実を知りながらも、私たちはいつも目に見えない神と、目に見えて強大な力を持つお金の威力との間で葛藤します。同様に、この書の背景となる時代の人々は、士師の代わりに登場する王の権力を最初から体験しながら、はたして「私たちの王はだれなのか」という疑問に対し、深刻に悩むしかありませんでした。 当時のイスラエルは、外敵が攻撃して来ると士師が立ち上がって退けましたが、人間の目にはその対処法は効果的に見えませんでした。外敵は突然襲って来て、収穫した穀物を略奪し、人々を殺し、捕虜として捕えて行きました。しかし、訓練された軍隊も王もいなかったイスラエルは、なすすべもなく被害を受けるしかなく、このような略奪の戦いに苦しみ、嘆いていました。 挙句の果てに、神の箱を敵軍のペリシテ人に奪われるという悲惨な出来事まで起こり、イスラエルの民は絶望しました(4:2~11)。しかし、驚くことに、神の箱はペリシテ人の神であるダゴンを倒し、堂々とイスラエルの地に戻って来ました。戦いには破れましたが、この出来事を通し、神は生きておられると確認することができました。 敗戦と略奪に打ちひしがれていたイスラエルの民は、士師サムエルに王を立ててくれるよう願い出ました。サムエルは、まことの王は神だけであると強調し、断ります。そして、王が立てられれば、重い税を納めたり、王室や軍隊のために息子や娘を送ったり、彼らに土地や産物をささげなければならないことを伝えます。しかし、窮地に置かれた民は、王を立てるよう強く要求し、結局神は王政を許されました(8:4~22)。 目に見え、肌で感じられる王の権力は強大でした。王は軍隊を統率して敵軍を追い払いもしましたが、イスラエルの民はその王に、税をはじめ多くの物をささげなければなりませんでした。民は新しく立てられた王権をどのように受け入れるべきか悩みました。このような混乱の中で、この書は、王も神の統治下にあることを明白に示しています。いかに王の権力が強くても、その王権もまた神の統治下にあり、神だけが王の王であるという事実を声高く叫んでいるのが、まさにサムエル記第一なのです。
いつでも希望は神にある 神の御声に聞き従うことに失敗したサウル王の死を見ながら、新たに登場したダビデに私たちは希望を見出します。油をそそがれて神の霊に満たされたダビデは、神の御声に聞き従いました。神の御名によってゴリヤテを打ち負かし、サウルを殺す機会があっても、油注がれた王を直接殺さないダビデは、神の御心にかなった王でした。 私たちは、ヨナタン、ミカル、ノブの祭司、アビガイルなど、ダビデに従い、彼を助けた人々の姿からも希望を見出すことができます。最初の王サウルは失敗しましたが、二番目の王ダビデに希望を持つのは、王の王である神は生きておられ、正しく統治してくださるという信仰があるからです。 今日も私たちの涙と嘆きの祈りを聞いてくださる神、王の王として全地を統べ治めておられる神、その御声をサムエル記第一を通して聞かれるよう願います。また、御声に聞き従う指導者を立てることに協力し、その指導者を支えることがいかに重要であるか、もう一度胸に刻みましょう。
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