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マタイの福音書の恵み30
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霊的なものを見分けなさい① |
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オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
イエスは、さばいてはならないと言われました。ですから、クリスチャンは、さばきではなく赦しで、罪に定めるのではなく恵みで、憎しみではなく愛で、人を包まなければなりません。 では、クリスチャンは、さばくのでなく、ひたすら沈黙すればよいのでしょうか。 学問や既存事実などを否定し、批判することで新しい学説ができ、発展するものなのに、さばいてはならないというみことばを間違って適用すると、混乱が生じるのではないかと質問した人がいました。マタイの福音書7章6節でイエスは答えてくださいました。1~5節と6節は反対のことを言っているようですが、そうではなく、これは調和をもたらすみことばです。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタ 7:6)。
霊的な分別力を持ちましょう では、このみことばはどういう意味なのでしょうか。それは、霊的な分別力を持ちなさいということです。イエスは、ヘロデ王を「狐」(ルカ 13:32)と呼んだことがあります。また、うわべを飾るパリサイ人や律法学者を指して「白く塗った墓」(マタ 23:27)、「まむしのすえたち」(マタ 12:34)と表現されました。「犬」と「豚」は、ある部類の人を意識して言われたことばです。では、具体的にどのような人を指すのでしょうか。人でありながら動物のように行動する人、汚れた習慣を持つ人のことです。 不義な者は「捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じ」(Ⅱペテ 2:12)、「『犬は自分の吐いた物に戻る』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる』」(Ⅱペテ 2:22)と表現されています。人の姿なのに、その人間性が犬や豚のような人は現実に存在します。このような人がひそかに紛れ込み、クリスチャンのように振る舞う様子を、ここでは言っています。もちろんクリスチャンは、すべての人を愛し、助け、理解しなければなりません。私たちは霊的に暗く、混乱した世に住んでいます。ですから、霊的な分別力がなければ、知らないうちに不義なる者たちに取り込まれて、救いまで失ってしまうことになります。真理と偽りを見分け、まことの預言者とにせ預言者を見分けてください。パウロは、手紙で何度も警告しています(ロマ 12:2、Ⅰコリ 6:9~10、ガラ 5:19~21 参照)。 世の終わりが近づいている今、御使いの姿を装ったサタンの手下に警戒しなければなりません。欲深い人は、必ず試みに会います。何でも、度が過ぎると危機に陥るものです。まことの聖徒は、真理を愛し、偽りを受け入れてはなりません。また人をさばいてもなりません。しかし、そのように真理を愛すると同時に、不義に対しても目をつぶってはなりません。
安っぽい感傷主義 このみことばの二つめの意味は、クリスチャンは安っぽい感傷主義者ではないということです。さばいてはならないとは、不義は見ないふりして、不正には沈黙しなさいという意味ではありません。度が過ぎた正義感に捕らわれ、人をさばき、罪に定めることは間違っていますが、無分別に愛するのも間違いです。義に基づかない愛は、愛ではありません。何でも極端に傾くのは危険で、本質から外れてしまっています。 また、四方八方に衝突しながら行動することも、よいことではありません。断つものは断ち、続けることは続けなければなりません。義に基礎を置いていない愛は、決して愛ではなく、それは安っぽい感傷主義にすぎません。 イエスの愛が、神のまことの愛になるために、どのようなことが起こったでしょうか。十字架です。十字架がなければ、その愛はむなしいだけです。つまり、まことの愛と赦しには、血と涙による義の代価が前提であり、それは愛を行う人が持つべき代価です。イエスは、遊女や取税人、病む者や悪霊にとりつかれた者には、奇蹟を行ってくださり、救いを宣言されましたが、パリサイ人や律法学者、祭司長やヘロデ王、ピラトには、とても冷たく接し、彼らに利用されませんでした。彼らを戒められたり、沈黙されたりもしましたが、イエスは、犬や豚のような者たちに、暴力や暴言などの非人格的な行いはされませんでした。ただ、彼らに聖なるものや真珠を投げたりもされませんでした。 この問題について、イエスは、マタイの福音書13章24節以降に興味深いたとえを話してくださいました。それは、毒麦のたとえです。ある人が畑に良い種を蒔いたのに、ある日、麦の中に蒔かなかった毒麦が育っているのを発見しました。なんとその毒麦は麦のそばで麦の養分を奪い、麦よりも丈夫に生長していました。しもべたちは主人に言いました。「どうして毒麦が出たのでしょう。」「敵のやったことです。」「では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう」(マタ 13:27~30 参照)。 イエスは、すぐに毒麦を抜き取られませんでしたが、毒麦を見分け、警戒するようにと言われました。私たちは、すべての不義の勢力を退けることはできません。イエスもこの地で不義な者たちとともに過ごさなければならず、彼らの手によって死なれました。彼らと戦っていたら、イエスは十字架で死なれる必要がなかったことでしょう。 クリスチャンは、決して暴力や武力を用いてはなりません。どのような集団的な力も利用してはなりません。キリスト教は物理的な力を誇示する集団ではないからです。たとえ相手が私たちに暴力を振るったとしても、彼らと同じ方法で戦っては退けることはできません。それは非キリスト教的な発想です。 毒麦が麦といっしょに育つのは現実です。しかし、イエスは、毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取ってしまうことを心配されました。クリスチャンにも同じ過ちがあります。神の正しいさばきからすると、毒麦も麦も死ななければならないかもしれません。悪者とともに暮らさなければならないのは、私たちの人生の現実です。私たちの力では、それらの勢力をすべて取り去ることはできません。では、どのようにすればよいでしょうか。警戒し、見分けなければなりません。悪者どもに、丸め込まれてはなりません。利用されても、引きずり込まれてもなりません。これが、このメッセージの核心です。 しかし、ここにクリスチャンの危機と困難があります。このように生きようとする人々には、必ず困難が訪れます。モーセは、自分の周りに数多くの勢力がありましたが、その勢力を利用せずに、パロに対抗しました。エリヤも一人で戦いました。エリヤが拠り頼んでいたのは、神だけでした。キリスト教が拠り頼むものは、憎しみの力ではなく愛の力で、さばく力ではなく赦す力であり、罪に定める力ではなく、恵みの力なのです。
写真:イ・ナムス、ジョン・ファヨン
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