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マタイの福音書の恵み28
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さばいてはなりません① |
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オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
「さばいてはいけません。さばかれないためです」(マタ 7:1)。イエスは、当時のパリサイ人や律法学者を念頭に置いて、このことを言われました。だれよりも神をしっかりと信じていると考えていた彼らは、信仰の名で自分たちのようにできない人々をさばき、見下し、無視するという独善的な態度を取っていました。しかし、このみことばは、分別なく、独善的な批判と断罪が正義の名で行われる、私たちの時代にも適用できます。
より正しいのはだれか イエスの時代、パリサイ人は、利己的でうわべを飾る信仰の基準で人を罪に定めていました。そのさばきの基準は、神のみことばではありませんでした。自分たちの価値観や伝統、言い伝え、文化的な背景などで、さばきの剣を振り回しました。宗教的にパリサイ人の義に追いつける人がいるでしょうか。彼らは、その高い基準を人為的に作り、その基準に達しない多くの人々を罪に定めました。 彼らは、「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか」(マタ 15:2)と言いました。つまり、なぜあなたは私たちが教えてきたこととは違うことを教えるのですかという意味です。イエスは「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました」(マタ 15:6)と答えられることで、パリサイ人の間違った批判を指摘されました。 また、イエスはパリサイ人に「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」(ヨハ 7:24)、「あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません」(ヨハ 8:15)とも言われました。 イエスは、間違った批判、感情的な批判、利己的な批判、無慈悲な批判を、最も合理的で恵み深いもののように行うパリサイ人の態度について指摘されたのです。 これらを、さらに深く理解するために、ルカの福音書18章10~14節のたとえ話を見てみましょう。二人の人が、祈るために宮に上りました。一人はパリサイ人で一人は取税人でした。11節には、パリサイ人が立って祈ったとあります。これはつまり、自分はあまりにも立派過ぎるのでほかの人とは祈ることはできず、一人立って祈ったという意味です。また、パリサイ人は、自分がだれよりも宗教のすべての律法と行いにあって完璧であると考えていたため、次のように神の前に告白します。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」(ルカ 18:11~12)。 続く13節では、また別の人が祈る様子を見ることができます。それは取税人ですが、彼は宮から遠く離れて立ち、目を天に向けようともせずに、自分の胸をたたいて、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」と祈りました。そして、イエスは「この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」(14節)と言われました。 パリサイ人のような態度で信仰生活をする者は、絶対に信仰が成長しません。人をさばくことは、あなた自身を殺すことです。 信仰が成長しない理由をいくつか考えてみましょう。一つめに、神のみことばに深くふれなければ、信仰は成長しません。二つめに、罪を犯せば、信仰は成長しません。三つめに、人をさばくと、信仰は成長しません。 人をさばくとは、自分自身が正しいと主張することです。このような人は、自分が罪人だということや間違ったことを言ったとは考えません。人の欠点や失敗ばかりを指摘し、さばきます。また、自分がさばかれないために、どこまでも自分自身を守ろうとします。しかし、神の御前で正しいのは自分だと主張することほど、危険なことはありません。なぜならば、神との間に壁ができるため、神と深い交わりに入ることができないためです。だからといって、さばいてはならないとは、不義を見ないふりをしたり、間違いを隠しなさいという意味ではありません。イエスは、一度も罪を受け入れられませんでしたが、罪人は受け入れられました。遊女や取税人や罪人たちと食事をともにされましたが、彼らをさばかれず、慰めて励まし、罪から離れるように助けられました。良い忠告は、人を励まし、助け、生かしますが、無慈悲で独善的な批判は、人を死に至らしめ、破壊させる毒針のようなものです。
さばく者は神からさばかれる マタイの福音書7章1節のみことばのように、私たちが人をさばくならば、同じように神からさばかれます。神は完全な方なので、神のさばきは完全であり公平ですが、人間のさばきは、たとえ善良で正しい人でも、不完全で不公平なものになるしかありません。また、さばいたそのことについては正しいかもしれませんが、ほかのことにおいては自分自身もさばかれるべきことが多いのです。 人をさばいてはならない理由の一つめは、人間が罪人であるからです。人間には、傲慢な偏見があり、自己中心的な動機と欲がうごめき、それを隠しきることはできません。それなのに、なぜこんな罪人がほかの罪人を叱ることができるでしょうか。叱ったからといって、その人が変わるでしょうか。さばき、罪に定めても、その人が悔い改めたり、変わることはありません。妻たちは、口に気をつけてください。愚痴を一生言い続けても、夫たちが変わることはありません。愚痴を言うのではなく、祈れば、聖霊が人の心にふれてくださり、変えてくださるのです。どんなに正しくても、批判し、さばくならば、機嫌を損なうのが人間です。 二つめに、人間は、不完全な存在だからです。完全になれると思うことは、思い違いです。見て、聞いて、感じることには、間違いがありえるのです。間違った情報を聞いて間違った判断をすることがあるのです。 三つめに、人間の力には限界があるからです。長く生きても、100歳です。力があっても、お米一俵持ち上げるのがせいぜいです。病気のために祈っても、死ぬのが人間です。どうしようもありません。 四つめに、人間は、時間と空間の制約を受ける存在だからです。成長環境、両親の影響力、文化的背景に縛られているため、人の価値基準と判断が違わざるをえません。それだけではなく、個人の性格や気質にも違いがあります。たとえば、ある人は、同じ出身地の人や先輩後輩の間柄、親しい人ならば、間違いを犯してもさばいたりせず、むしろかばったりします。しかし、自分の気に食わない人の場合は、きちんとしていても低い評価を下したりします。これは、間違ったさばきの態度です。人は正義感を振り回しますが、その背後には人間の罪の性質がうごめいているのです。話を合理的にするために、神や正義、真理をとってつけますが、どうしようもありません。 イエスは、このような人間の姿をあまりにもよく知っておられたため、私たちにさばくのではなく、愛するように命じられました。「さばくのではなく、励ましなさい」「憎むのではなく愛しなさい」「罪に定めるのではなく、赦しなさい」と言われました。
写真:イ・ナムス、ジョン・ファヨン
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