|
マタイの福音書の恵み 25
|
心配してはなりません ② |
|
オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
空の鳥、野のゆりを見なさい イエスは、心配してはならない理由を26節で説明されています。 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」(マタ 6:26)。 鳥は、人のように種蒔きをし、肥やしをまくなどの農業を行いません。ただ自由に飛び回りますが、神は宇宙万物に満たされた自然の豊かさを通して、彼らを育てておられます。イエスは、あなたがたは一羽の鳥よりもすぐれた存在であると言われるのです。 私たちが留意すべき点は、飛ばずにじっとしていても、口にえさは入ってこないということです。飛んで、えさを捕まえ、食べなければなりません。同じように、神は、人間に頭脳、健康、意欲、夢などの働くことのできる要素を与え、食べて生きることができるようにされました。神の方法は、不労所得や怠惰ではありません。 心配してはならない別の理由があります。「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません」(28節)。 神は、宇宙万物を創造されたまま、放置される方ではありません。管理し、干渉し、世話をしてくださいます。人間を創造された神は、私たちを捨てず、髪の毛一本までもご存じの細やかな愛で私たちの一挙手一投足を気にかけてくださっています。 親は、子どもを生むと、子どものための計画を立てるものです。同じように、神は、私たちが信仰を持ったときからイエスの姿に似るまで、私たちのための段階的なご計画を持っておられます。神は、私たちの結婚にも、大学入試にも大きな関心を持っておられ、親よりもその関心は大きく深いのです。神は、私たちの人生のために輝く道を備えてくださっています。私たちが神の御心に従いさえするならば、その道に私たちを導いてくださるのです。
よくしてくださらないわけがありましょうか イエスはこれらを説明しながら、だれも見向きもしない一輪のゆりの栄光を、この地上で人間が持てる最大の栄光であるソロモンの栄光と比べています。彼は、世のすべての知恵と富と名誉と権威を持った王でした。しかし、このような栄華をきわめたソロモンでさえも、このゆりほどにも着飾っていませんでした(29節)。続く30節で、イエスは結論を下しておられます。「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」 ですから、このみことばは一輪の花がソロモンの大きな栄光よりも尊いのに、ましてあなたがたはそれに劣るだろうかという意味です。イエスは、「なぜあなたは心配しているのか。神があなたの人生を悲劇で終わらせるだろうか」と言っておられるのです。 私たちは一輪の野の花よりも、一羽の鳥よりも、御使いよりも、尊い存在です。私たちは神の子どもであり、御使いもうらやむものを私たちに与えられたのです。どうして神が私たちを養われないことがあるでしょうか。養ってくださらないかもしれない思うのは、私たちの不信仰の問題です。神が私の人生を満たしてくださらないかもしれないと考え、自分で自分の人生を満たそうとするのです。これがバベルの塔の概念です。神が守ってくださるという考えがないため、自分で自分の人生を守るために城壁を築き続けるのです。 ローマ人への手紙8章32節に、神の私たちに対する関心がよく現れています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」 また、私たちに信仰がないわけではないのですが、生活を見ると問題が解決されないことがあります。こじれにこじれて、困難ばかりが重なっていきます。「神が約束してくださったのに、なぜこんなことになるのだろうか。なぜ私の人生はこんなにみじめなのだろうか。なぜ私の人生は悩みでいっぱいなのだろうか」と思うかもしれません。聖書を通して、しっかりと答えを得てください。神が私たちに関心がなくて私たちを養われないのではありません。理由は、私たちが神を信頼していないからです。人は、自分が神を信頼していないとは考えもせず、神が自分を助けてくださらないとばかり不満を抱きます。 今、この瞬間から、神を信頼してください。だれでも、信じる価値のあるものは信じます。信じられないことを信じるのが信仰です。エリコの城壁を6度回ったときまでは、何の変化もありませんでした。それが信仰の現実です。しかし、7度目に回ると、城壁が崩れました。ツァラアトに冒されたナアマン将軍がヨルダン川で7度身を洗いなさいと言われたときにも、6度目までは何の変化もありませんでした。その時、人は不安になり、心配し、恐れ始めます。それが信仰の現実です。しかし、信仰をもって7度目に入ったとき、神は約束通り答えてくださいました。信仰は奇蹟を起こすのです。 問題が解決されないもう一つの理由があります。教会にも熱心に通い、早天祈祷や徹夜祈祷までしているのに答えられない理由は、神と人の罪に対する見解が違うからです。イザヤ書59章にはこうあります。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザ 59:1~2)。 八福の教えにも、心のきよい者は神を見るとあります。神が見えないのは、私たちが汚れているからです。神が見えないと不満を言うのではなく、私たちのたましいと良心をきれいに掃除しなければなりません。そうすれば、神を感じ、神が見え始めます。
あすのことはあすが心配します 心配するのをやめましょう。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」(27節)とあります。心配していのちが延びるなら心配してください。心配すると、生じるのは悩みだけです。心配するのをやめましょう。あるいは、心配を捨てるのを惜しんで、そのまま所有しますか。心配を脱ぎ捨ててください。あすのことはあすが心配します。労苦は、その日その日に十分にあります。すべての心配を主にゆだねてください。主は、すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさいと言われました。また、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配してはならないとも言われました。私たちはこのように祈りましょう。「主よ、私を心配させる悪魔を追い出してください。どうぞ主の平安で満たしてください。主が私たちを愛し、すばらしい計画を持っておられることを信じることができますように。アーメン。」
|
|
|
|
|