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マタイの福音書の恵み ⑳
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敵に関するイエスの解釈 ① |
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オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
クリスチャンは、この世でどのように生きるべきなのでしょうか。この問いに、イエスは答えてくださいました。正しい世の中で、正しく生きるのは、難しいことではありません。しかし、悪しき世の中で義をもって生きるのは、ひどく難しいことです。イエスは、これらのことについて教えられながら、私たちの義がパリサイ人や律法学者の義よりもすぐれたものでなければ、天の御国に入ることはできないと言われました。では、悪しき世の中で義をもって生きるとは、どのような意味でしょうか。イエスは、この問題について具体的な例を六つあげて説明されました。 一つめは、殺人についてです。兄弟を憎んだり、兄弟に腹を立てるのは、人を殺すことと同じであると言われました。二つめは、姦淫についてです。情欲を抱いて女性を見る者は、すでに姦淫を犯したと言われました。三つめは、離婚についてです。不貞以外の理由で妻を離別する者は、罪を犯したと言われました。四つめは、誓願に関する問題です。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」以上のことは言ってはならないと言われました。五つめは、復讐についてです。悪い者に手向かってはならず、右の頬を打つ者には左の頬も向け、下着を取ろうとする者には上着も与え、1ミリオン行けと強いる者とはいっしょに2ミリオン行きなさいと言われました。 隣人を自分自身のように愛する 次は、六つめのクリスチャンの義の最高領域であり、頂点に当たる部分です。このみことばは、イエスのみことばの中でも最も有名で、山上の説教の核心となるものです。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタ 5:44)。 クリスチャンの中で、このみことばの境地に至った人がいるのなら、その人はイエスのように生きている段階に至ったと言っても過言ではないでしょう。レビ記にも、兄弟や隣人を愛しなさいという命令があります。「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」(レビ 19:17~18)。 隣人を自分自身のように愛しなさいという命令は、新約聖書だけにあるのではありません。すでに旧約聖書に記されています。しかし、驚くことに、宗教専門家であるパリサイ人や律法学者は、このみことばを自分たちの都合の良いように歪曲して用いました。彼らの考えでは、自分の隣人とは自分の民族と宗教に属している人だけでした。ですから、そこに属していない異邦人は敵と決めつけました。また、彼らはこのみことばを拡大解釈して、隣人と兄弟は愛するが、異邦人は敵と同じなので憎むように教えました。このことは、「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています」(マタ 5:43)とある通りです。 聖書が、敵を憎めと言ったことはありません。それにもかかわらず、なぜパリサイ人と律法学者はこのような結論に至ったのでしょうか。これまで六つの例を見て、その共通点を見つけました。聖書を信じないことより、聖書を歪曲することのほうが、恐ろしい罪であることを知りました。 多くの人々が教会に来て、聖書を信じます。バイブル・スタディもします。しかし、聖書を本来の意味どおりに解釈せず、自分の都合に合わせて、取り除きたいものを取り除き、補いたいものを補い、適当に信じる人が多くいます。これは、結果的に大きな問題を引き起こしています。
選ばれた民と異邦人 「あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である」(レビ 19:34)。「このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じである」(出 12:49)。 選ばれた者がいて、また異邦人がいるのでしょうか。厳密に言うと、私たちは異邦人ではないでしょうか。私たちは、時間的に少し早く選ばれはしましたが、それ以外に大きな違いはありません。しかし、間違った選民意識や特権意識、優越感で、人を低く評価し、軽くあしらうのです。会社に長くいる人と新入社員のいる会社でも、開拓当時からいる教会員と教会に新しく来た人のいる教会でも同じです。人間はなんと傲慢で、卑怯なのでしょうか。 神はアブラハムを選ばれました。アブラハムに信仰があったから選ばれたのでしょうか。アブラハムも以前は、カルデヤ人の地ウルで偶像礼拝をしていた平凡な人に過ぎませんでした。アブラハムは選ばれたことにただ感謝しました。私たちが神に仕えることができること、奉仕できることは、恵みであって、特権ではありません。また、神はダビデを通してイスラエルの民を選ばれました。ユダヤ人であることや選民であることを誇らせるために、彼らを選ばれたわけではありません。アブラハムとダビデの子孫からイエス・キリストが生まれるようにされるためです。全世界を救うための、神の驚くべきご計画であり摂理だったのです。選ばれた民の使命は、このような神の御心を悟り、従うことであるべきでした。 しかし、イスラエルの民は、その恵みと愛を悟らず、特権が与えられたと思い違いをし、イエス・キリストを十字架につけてしまいました。そして、今もイエス・キリストを信じず、割礼を受けた選民であるという特権意識を持って生きています。しかし、この間違った選民意識の中で、なんと多くの苦難を味わい、なんと多くの血を流していることでしょうか。 ドイツは歴史上、一時、間違った民族観と選民意識のために600万人のユダヤ人を虐殺しました。アメリカ南部では、肌の色が違うという理由で、奴隷戦争が起こり、今もKKK(白人至上主義団体)が活動し、アメリカ社会の暗い存在となっています。南アフリカ共和国で起きた数々の悲劇もあります。そこでは、私たちが理解できない事件がまだ起きています。これらのことを見ると、間違った選民観や民族観が、なんと大きな歴史の過ちを生み、傷あとを残していることでしょうか。これは、明らかに聖書と神を間違って信じることによって生じたことです。 では、選民とはだれで、異邦人とはだれでしょうか。私たちの隣人はだれで、敵はだれでしょうか。もはや、私たちには異邦人も敵もいません。教会の主人はだれで、客はだれでしょうか。私たちはみな、神の民なのです。イエスは、このことをたとえ話で話してくださいました。マタイの福音書20章のたとえ話に、ぶどう園で朝9時から仕事をした人と午後5時から仕事をした人は、同じ報酬が与えられたとあります。早く来たか遅く来たかという差は重要ではありません。むしろ、遅く来た人が早く来た人より立派なこともあるのです。問題は「私は、神の御前で何者なのか」ということなのです。
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