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霊的な礼拝者として
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イエスが教えてくださる祈り |
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オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
聖さのために祈りましょう ――私たちの人生を通して父の御名があがめられますように
「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」(マタ 6:9)。 神は聖なる方です。神は私たちが神の聖さを認め、神の御名をあがめることが礼拝であると言われました。十戒の第三の戒めは「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」です。しかし今日、世の人々がどれほど神の御名を汚し、みだりに唱えているか、ことばでは言い尽くせません。 ところが、世の人々が神の御名を汚すことよりも大きな問題は、神を信じる人々が神の御名を汚すことです。神を信じる私たちが偽善的で矛盾した言動をするとき、世の人々は私たちを非難するだけでなく、神の御名をののしります。 主の祈りにおいて「御名があがめられますように」とはどのような意味でしょうか。私たちが聖なる神をさらに聖くすることはできません。問題は「自分自身」です。これは私を通して聖なる神の御名が汚れされないように、私自身が聖い人生を生きられるようにしてくださいという祈りです。私たちは、偽善的な信仰、偽善的な祈りによって神の聖さをいくらでも汚すことができます。私たちはそれを警戒し、神の聖さをいつも考え、神の聖さを宣言しなければなりません。神の聖さの中には純潔と力と威厳があります。 私たちが教会で何をしたかよりも重要なことは、その結果が神の栄光になるのか、神の御名が聖く現れたのかということです。ですから「私を通して神があがめられるように助けてください」と最初に祈らなければなりません。これが神の栄光を考える祈りです。
神の統治を求めましょう ――祈りはこの地に天の御国を植えます
「御国が来ますように」(マタ 6:10)。 「御国が来ますように」という祈りは、「神の国が私に来るようにしてください」という意味です。イエスの祈りの核心は神の国です。神の国が今ここに臨むように祈ることです。 イエスの時代、すべてのイスラエルの人々は、新しいメシヤ、新しい社会を待ち望んでいました。つまり、旧約聖書の約束が成就することを待ち望んでいたのです。そして、イエスはご自分が世に来られて、神の国がこの地に臨んだと言われました。では、神の国とは何でしょうか。 第一に、世の国ではなく、神に属する国です。人間を中心にした世の国は、憎しみと怒りと争いの原理、つまり弱肉強食の原理にしたがって動きますが、神の国は、愛と赦しの原理の下で互いに仕え合い、協力し、献身することによって成り立ちます。 第二に、神の国はその主人であられる神が統治されるところ、つまり天の御国です。天の御国とは地名ではなく、神の影響力と統治のあるところです。これは場所ではなく統治の概念です。 ですから、イエスが神の御子としてこの地を救うために来られたとき、神の国が臨んだと言われたのです。また、このような意味から、イエスは弟子たちに天の御国をたとえで語られ、行く先々で天の御国の福音を教えられました。この天の御国とは、地上でのイエスの統治を意味します。つまり、どこであれ、イエスがおられるところが天の御国なのです。 第三に、「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」(ロマ 14:17)。このような天の御国は、イエスがこの地に来られることで、すでに成し遂げられました。これは私たちが救われたことを意味しています。 マタイの福音書12章28節にも「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」とあります。そして、ルカの福音書17章20~21節にも「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。『神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです』」と記されています。 イエスのみことばのように、私たちの中に今、神の国が臨んでいます。なんと驚くべきことでしょう。しかし、多くの人々は天の御国を、死んだら行くところとしてしか考えていません。もちろん、死んだら私たちは天の御国に行きます。しかし神の国は、キリストとともにすでに地上に来ました。キリストが支配しているところはみな天の御国です。もちろん、この天の御国は完成されたものではありません。天の御国は、終わりの日、つまりイエスが再び来られる日に、完全に成し遂げられます。これは一方で、私たちが聖化されることをも意味しています。天の御国は今この時にも福音宣教を通して広がっているのです。 イエスを迎え入れた心が天の御国であり、イエスを迎え入れた家庭と社会が天の御国です。しかし、「イエスを迎え入れた」ということは「単にイエスを知っている、イエスを信じた、イエスを迎え入れた」という意味ではありません。これは私たちがイエスを王として迎え入れ、イエスの支配と統治を受けることを心に決め、イエスの命じられるとおりに従うことを意味しています。そうするとき、天の御国が私たちに臨み、感じられるようになるのです。 教会のすべての集まりで天の御国を経験してください。私たちはみな足りない者なので、互いにぶつかり合い、失敗をすることもあります。しかし、ともに集まってみことばを中心にして祈り、互いに愛し合うとき、新しい神の世界を一つ一つ経験することができます。なんとすばらしいことでしょうか。パウロは、監獄にいながらも天の御国を経験しました。環境や組織は重要ではありません。イエスの統治と支配を受けるならば、そこがまさに天の御国なのです。 もし私たちがイエス・キリストを救い主として信じて救われたとしても、今、天の御国を味わえずに苦しんでいるなら、それは大きな不幸です。長い間イエスを信じても心に平安がなく、天の御国がなければ、それは大きな矛盾です。今どのような状況にいたとしても、神が治められるように、このように祈ってみましょう。「主よ、私はイエスを信じて救われたと言いながらも、私の考え、私のかたくなさ、私の方法で生きてきたので、深い葛藤と悩みの中にいます。今、私のところに来てくださり、私を治め、私の心、私の家庭、私が生きているこの世界に天の御国が臨むように導いてください。主よ、私は自分自身の王座から下りて、主の足元にひれ伏し、主に従います。」私たちが心からこのように祈る瞬間、主が私たちを治めてくださいます。そしてその時、私たちの中にまことの平和が臨むのです。まさにこれが神の国が私たちに臨むことであり、私たちが味わうことのできる天の御国なのです。
神のみこころを求めましょう ―― 神はすべてのたましいが救われることを望んでおられます。
「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」(マタ 6:10)。 クリスチャンにとって最大の望みは、神のみこころに従って生きることでしょう。そのためには、まず神のみこころを正しく知ることが必要です。テモテの手紙には「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって」(Ⅱテモ 1:9)とあります。 天の御国で行われる神のみこころは一つです。それは人間を救おうとされる神のご計画です。エペソ人への手紙1章11節は「この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです」と言っています。まさにこのために神はイエスを世に遣わされ、このためにイエスは十字架にかけられて死なれました。イエスご自身も「わたしが世に来たのは、神のみこころを成し遂げるためである」と言われました。 神のみこころを取り違えないでください。神のみこころは世のすべてのたましいを救うことです。これよりも偉大なみこころはありません。このような神のみこころである救いを、私たちの立場からわかりやすく言うと、それは伝道であり、さらには世界宣教です。私たちは夜遅くまで園の中で主とともにいたいと願いますが、世に出て行かなければなりません。その理由も、まさにこの目的のためです。 イエスを信じる人の死をあわれまないでください。あわれなのは私たちです。なぜなら、死んだ人はすでに神のもとにいますが、私たちは罪深いこの世で葛藤し、もがきながら、生きていかなければならないからです。 では、私たちはなぜ生きるのでしょうか。それは神のみこころのためです。なぜ勉強するのでしょうか。なぜ働くのでしょうか。なぜ結婚するのでしょうか。それはすべて神のみこころであるたましいの救いを成し遂げるためです。計画を立てて伝道してください。伝道しようとする人の名を声に出しながら、「神のみこころがこの人に成し遂げられますように」と祈ってください。
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