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喜びの霊性⑥
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環境を越えた喜び ① |
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カン・ジュンミン ● ニュー・ライフ・ビジョン教会 主任牧師
私たちは、幸せを決定するものの一つとして環境をあげます。多くの人が、それを喜びの一部ではなく、絶対的要素であると信じ込んでいますが、これは間違いです。幸せや喜びを誤解しているのです。問題がなくなり、環境が変われば、喜びにあふれるだろうと思い込んでいますが、それはサタンの誘惑であり、世の幻想です。 人生において、環境は非常に重要です。環境を越えるということは、環境を軽視してもよいということではありません。私は、長く生きれば生きるほど、環境の重要さを学びます。「人が家を造り、家が人を造る」ということばもあります。木が健全に育つためには、良い地が必要です。良い種でも、蒔かれた土地が悪ければ、実を結ぶことはできません。職場環境がよくなければ、効率も上がりません。 しかし、環境がすべてのことを決定するわけではありません。非常に困難な環境から偉大な人物が生まれることもあります。日本の松下幸之助は「経営の神様」と呼ばれ、日本一の実業家であると言われています。ある記者が松下幸之助にこのように質問しました。「会長は、ご自分が人と何が違ったために、松下グループを世界的な会社へと育て上げることができたとお考えですか。」しばらく考えて、こう答えました。「私が三つの点において、人より劣っていたからです。ひどく貧しかったこと。人よりからだが弱かったこと。人より頭がよくなかったことです。」とても理解できないという表情の記者を見て、松下幸之助はこのように続けました。「貧しかったために、くつ磨きや新聞配達などの多くの社会経験を積むことができました。からだが弱かったために、いつも運動をしていたので、歳を取っても健康を維持することができました。小学校も卒業できず、勉強が足りなかったので、この社会の人々をすべて私の師と考え、いつも学ぶ姿勢を持って臨み、怠けずに仕事をすることができました。」 喜びも同じです。喜びは、良い環境だけで味わえるわけではありません。まことの喜びは環境を越えます。問題がないから喜びがあるのではありません。人生は問題の連続です。まことの喜びは、問題を乗り越えていく過程の中で、味わうことができます。どのような環境や人、問題の中でも、喜ぶための秘訣を学ばなければなりません。この喜びは内面の喜びであり、何者も奪うことができない宝のようなものです。 幸せは、心から生まれます。心は環境の影響を受けますが、その心をしっかり整えれば、環境を越えて喜ぶことができます。同じ環境でも、幸せな人もいれば、不幸な人もいるのです。
喜びの条件を選択すること 喜びは選択から来ます。私たちの人生を決定づけるのは、選択です。人、環境、時、教会、病院を選択します。一方、選択できないものもあります。両親、子ども、家族は選択できません。選択できないものは受け入れて、愛するほかありません。それを変えようとするのではなく、ただ愛し、楽しまなければなりません。 私たちは、何をもって喜ぶかを選択することができます。パウロは、喜びの条件をしっかりと選択しました。それは、イエス・キリストを宣べ伝えることでした。「あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう」(ピリ 1:18)。パウロは、すべての環境を越えて福音が宣べ伝えられていることを喜びとすると選択しました。これは、環境を喜びの条件にしないという選択でした。福音が宣べ伝えられることを喜ぶと選択したのです。 私たちも、自分自身に聞いてみましょう。「私は喜びの条件として、何を選択しようか。」その条件が、物、出世、成功、結婚という人もいることでしょう。多くの人は、その条件が満たされるまで、幸せを先延ばしにします。今持っているものを楽しむことを先延ばしにし、明日訪れる青い鳥を待ち望みながらきょうを生きています。しかし、すべての条件が満たされる確率は高くありません。また、この条件が満たされたとしても、根本的な問題をすべて解決することはできません。 結局、喜びとは、何を喜びの根拠として選択するかによって決定されるのです。人や環境が私たちを喜ばせてくれるわけではありません。喜びの理由を何に定めるかによって、環境を越えて喜ぶことができるのです。幸せも同じです。 パウロは、イエス・キリストが宣べ伝えられることを喜びとすることを選択しました。イエスを宣べ伝えることは、どのような環境の中でもできます。ですから、パウロは、監獄の中でも、自分を監視する看守にイエスを伝えました。そして、そこから喜びを味わうことができました。パウロには、どこに住むかより、何を追い求めて生きるかが、ずっと大切でした。どこにいても、心の態度を変えながら幸せになるという真理を会得したのです。パウロは満ち足りることを選択したのです。 天の御国は、私たちの心の中から始まります。イエスは「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ 17:21)と言われました。悔い改めるならば、天の御国が臨むと言われたのです。ですから、福音とキリストによって喜ぶことを選択してください。イエスが心に住まれる人は、最も豊かなのです。絶望ではなく希望を、悲しみではなく喜びを、憎しみではなく愛を、疑いではなく信じることを、心配ではなく平安を選択してください。選択は簡単ですが、その結果は永遠のものです。忘れないでください。幸せは選択なのです。 喜びの条件を選択する場合、どのような環境にも左右されない条件を選ぶことが知恵です。イエスの喜びは、仕えることでした。人を養い育て、愛することがイエスの喜びでした。これは、どこででも行うことができます。人を幸せにすることを喜びとすることを選択すれば、いつでも喜ぶことができます。どのような環境ででも学ぶことを喜びの条件として選択することも、大きな喜びとなるでしょう。これは、私の喜びの条件でもあります。私はどのような環境や出来事においても、また、だれに会っても、それは何かを学ぶ機会であると考えています。このような心を持つことによって、私はどのような出来事をも喜ぶことができます。それを通して、何かを学ぶことができる喜びを味わうことができるからです。
残っているものを喜ぶこと 何かを失うと、失望し、挫折し、不幸だと考えるものです。特に、大切にしていたものを失ったとき、怒りがあふれ、絶望を覚えます。問題は、失ったものばかりに気を取られるために、自分の手に残っているものはすっかり忘れてしまうことです。何が残っているか、今この時にできることは何かを考える訓練をしなければなりません。 ある日、著述家で有名なノーマン・ヴィンセント・ピール博士の相談室に、50代の男性が訪れました。その男性は深い絶望に陥っており、ひどく暗い表情をしていました。 「先生、私には希望が一つもありません。生涯をかけて積み上げてきたものがすべて崩れ去ってしまったのです。私は終わりです。私に残っているものは何もありません。」男性はすべてをあきらめたようでした。博士は、メモ用紙を差し出して、その男性に言いました。「あなたには、一つも残ったものがないのですか。残っているものがあるはずです。書き出してみてください。」その男性は、ため息をつきながら、首を横にふりました。「いっしょによく考えてみましょう。奥様はご存命ですか。」「もちろんです。立派な女性で、とても献身的です。」「立派な奥さんと書いてください。お子さんはいかがですか。」「子どもは3人です。成績は優秀なほうです。私が失意のどん底にいると知り、力になると言ってくれています。」「二つめ、力になると言ってくれる3人の子どもと書いてください。ご友人はいかがですか。」「はい。とても友情深く、義理堅い友人が数名います。私を援助してくれると言ってくれたのですが、断りました。」「これまで、他人に迷惑をかけたり、損をさせたりしたことはありませんか。」「ありません。私は、いつも正しく生きようと努力してきました。少しも良心に反することはしていません。」「そうですか。では、お体はいかがですか。」「非常に健康です。不調はありません。」「あなたにある、すばらしいものを整理してみましょう。一つめ、立派な奥様がいる。二つめ、力になると言ってくれる子どもがいる。三つめ、援助したいと言ってくれる友人がいる。四つめ、良心的な生活をしている。五つめ、健康なからだを持っておられる。さあ、よく見てください。少し前、あなたは持っているものは何もないと言われました。しかし、あなたほどすべてをお持ちの方はいないと思いますが。」その男性は、はにかみながら言いました。「その通りですね。私は思ったより悪くないようですね。」 人を偉大なものとするのは、莫大な持ち物ではありません。人にインスピレーションを与え、希望を与えるのは、豊かな資源ではありません。少しのもので偉大なことを成し遂げる人によって歴史は変わります。パウロとヨハネが祈るために神殿に入ろうとしたとき、生まれつき足のなえた人に会いました。その人は、何かをもらえると思って二人を見ました。ペテロの言ったことに注目してください。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」(使 3:6)。 神は、私たちが持っているものを通して、みわざをなしてくださいます。何も持っていないとは言わないでください。あなたに残っているものがあるはずです。列王記第一17章のツァレファテのやもめが持っていたのは、一握りの粉とほんの少しの油だけでした。神は、その少しのものを通して、みわざをなしてくださいました。
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