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喜びの霊性③
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近くにいる人を愛する喜び① |
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カン・ジュンミン ● ニュー・ライフ・ビジョン教会 主任牧師
幸せは近くの人を愛することにあります 幸せは愛にあります。しかし、多くの人が愛する方法を学ぼうとしません。私たちは多くのことを学びながら生きてきました。しかし、私たちの幸せに大きな影響を与える、愛する方法をしっかりと学ばず、愛の技術も磨いてきませんでした。 愛も技術です。技術は、切磋琢磨の努力を通して、上手になるものです。『愛の技術』という本を書いたエリッヒ・フロムは、愛の技術を磨くことについて次のように述べています。 「愛も技術であることを悟らなければならない。愛する方法を知り、習得したければ、音楽や絵画、建築や医学、工学技術を学ぶのと同じ過程を通らなければならない。技術を学ぶ時に、必ず通らなければならない段階は何だろうか。技術の習得過程は二つに分けられる。一つめは理論の習得、二つめは実践的な習得である。万が一、医療技術を学ぶなら、最初に人間の体と疾病に関する事柄を知らなければならない。しかし、理論的な知識をすべて学んだとしても、医療技術が熟達したわけではない。実務を繰り返し重ねてこそ、医療技術は熟達するものだ。理論的な知識と実践の技術が合わされなければならないのだ。」 エリッヒ・フロムは、多くの人々が愛に渇き、求めているのに、愛の技術を学ぼうとしないことを残念に思っています。人間のまことの喜びは愛にあります。しかし、私たちは喜びを求めながら、愛の技術を学ぶのに慣れていません。私たちは、近くにいる人を愛する技術を会得しなければなりません。 人生の大きな喜びも痛みも親しい人から来ます。私たちを立ててくれる人も、打ち壊す人も近くにいます。イエスを売ったのは、3年間イエスとともに過ごしたイスカリオテのユダでした。また、最も近くにいたペテロもイエスを裏切りました。しかし、全世界にイエスを宣べ伝えたのは、3年間イエスとともに過ごした弟子たちでした。 パウロも例外ではありません。パウロが偉大な働き人となるために、そばで助けたバルナバのような人物がいました。しかし、パウロとバルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネのために争いました(使 15:38~39)。パウロも親しい人との人間関係のために苦い痛みを経験しました。私たちの人間関係はどうでしょうか。 人生で、最も難しいのは親しい人を愛することです。だれよりも愛しているのに、傷つけられるものです。家庭や会社、時には教会でも、問題は人間関係です。愛し愛される一方、傷つけ傷つけられるのです。パウロは、親しい人と楽しく過ごして愛する技術を教えてくれています。これは霊的な原理でもあります。 親しい人を愛する秘訣は、喜びと幸せの秘訣でもあります。また、人生で成功を収める秘訣です。デール・カーネギーは、「どのほかの能力よりも、人と良い関係を保つ能力を持つ者に、より多くの報酬を払う」と言っています。人生の成功を左右し、幸福と不幸の原因となる人間関係の秘訣を、神は何と言われているでしょうか。
親しい人を愛せない障害物 人生の矛盾は、愛すべき人を愛せないことにあります。最も愛さなければならない対象は、最も近くにいる人です。しかし、近くにいる人を愛せず、愛してはならないものを求めるところに問題があります。 初めて人に会ったり、愛し始めるときは、熱い思いを持つものです。礼儀正しく気を配り、大きな関心と温かい心をもって会います。相手の心を得るために、知識と技術を総動員します。そして、その人を得るのに成功します。 しかし、問題は、一度得てしまうと、あれほど一生懸命獲得した愛が急激に冷めていくことです。なぜ、熱く愛し合って結婚したのに、結婚後は愛がさめてしまうのでしょうか。いつの間にか愛していた人が他人となり、敵となってしまう理由は何でしょうか。それは、私たちの考えと習慣の中に、愛を妨げる障害物があるためです。これらの障害物を乗り越えると、私たちは、より深く愛することができるようになります。それらの障害物とは、愛を所有物と考えること、おとぎ話を信じていること、親しくなるより慣れてしまうこと、人の変化と成熟に対する間違った期待と性急さです。では、一つずつ見ていきましょう。
愛を所有物と考えること エリッヒ・フロムは、人間が生きる様式を、所有様式と存在様式の大きく二つに分けました。所有様式にしたがって生きる人は、すべてを所有の目から考えます。このような人は所有に大きな関心を持ち、所有することに執着します。ですから、望んだものを所有すると、別のものを所有することに関心が移ります。 所有様式にしたがって生きる人は、人も所有の対象です。「私の」という表現をよくします。ですから、人を好きになると、その人を得るまでは大きな努力をしますが、一度その人を得てしまうと努力をしなくなります。愛に目的があるのではなく、所有に目的があるからです。 人間は、所有できるような物でもトロフィでもありません。人間は人格体です。愛は、所有することではなく、人格的に愛することです。その全存在を愛することです。その人が持っているものを愛することではなく、その人の全存在を愛することがまことの愛です。神は私たちが所有するものでなく、私たち自身を愛してくださっています。
おとぎ話を信じていること 私たちは、シンデレラや白雪姫のようなおとぎ話が好きです。しかし、問題はほとんどのおとぎ話が、「それから、幸せに暮らしましたとさ」で終わることです。しかし、私たちの経験からもわかるように、おとぎ話と現実は違います。それについて、ジョシュア・リーブマンは次のように言いました。「『それから、幸せに暮らしましたとさ』ということばは、文学の中でも最も悲劇的なことばの一つである。そのことばがうそであるからだ。これは、不可能なことを期待させる神話である。」 間違った神話は捨てなければなりません。結婚をしたから、よい出会いをしたから、幸せが自然に訪れるというわけではありません。どのような関係でも、蜜月はいつか終わります。スコット・ペックは「だれと恋に落ちても、その関係が少し続くと、その恋から覚めてしまうものである。蜜月は必ず終わる。満開の恋愛の花は、いつかはしおれるものだ」と言います。親しい人を継続的に愛するためには、永遠のロマンス神話を捨てなければなりません。良い出会いは、始まりに過ぎません。良い出会いを幸せな出会いとするためには、莫大な努力と技術が必要なのです。
親しくなるより慣れてしまうこと 愛の目標は、親密さにあるのであって、慣れにあるのではありません。近くにいる人を愛せないのは、親しくなるよりは慣れてしまうからです。人は慣れると、さびしく感じます。慣れてしまうと、その価値は漠然となり、さげすみ、軽んじるようになります。 イエスでさえも、故郷では尊ばれませんでした。彼らはイエスをよく知り、慣れていたので、尊敬も期待もしませんでした。信じるどころか、軽蔑さえしていました(マコ 6:4~6)。 親密さは、互いを深く知っていく過程で深まります。そのため、互いが自分のことを見せる必要がありますが、このときに批判してはなりません。批判したりさばくために自分を見せ合うのではなく、理解するために見せ合うのです。その過程で、より深く互いを知るようになり、親しくなり、愛するようになります。 親しく愛するうえで障害となる慣れを警戒している詩があります。この詩を通して、私は最も近くにあるものがどんなに尊いかということと、また近くで起きている変化を新しく感じる喜びを学びました。 「私は、狭い自分の場所を旅行するだけで、一日を費やす。季節ごと、それよりももっと小さい単位の月ごと、週ごとに変わる周りの風景を味わうだけで、一生が過ぎてしまうのではないかと思う。カミューは『知らない所に行って住みたい』と言ったが、私は、知っている所で新たな発見をしながら住みたいと思う。見慣れたものを、真新しい出会いの中で感じるときめきをもって見たい。小さい旅行を通して、私は、最も遠い旅行とは自分自身であること、私の体を任せているこの場所であることを新しく悟った」(作者不明)。 人の変化と成熟に対する間違った期待と性急さ 私たちが人に会うのは、愛するためです。ですから、いつもなぜ人に会うのかを考えなければなりません。それは愛するためです。愛が最初に来なければなりません。 しかし、愛ではなく、人を変えるのが目的ならば、愛は難しくなります。人を変えるために、その人の短所や欠点を捜そうとします。足りない部分を捜し回り、それについて口出しします。そうすると、私たちは、愛するのではなく、傷つけ、争うようになります。 もちろん、愛することは相手をよりよくするために関心を持つことです。しかし、人を変えるために、どんなに私たちが努力をしても、人が変わるわけではありません。律法の限界がここにあります。律法は、間違いを指摘し、あらわにし、訴えます。しかし、福音はそうではありません。私たちの足りない部分を受け入れ、愛を補ってくれます。むしろ、私たちの長所と可能性に光を当てることで、まことの変化を作り出します。 何よりも、愛は耐え忍ぶものです。なぜ争いが起き、恐れがあるのでしょうか。それは、性急だからです。性急な変化と成熟を望むことは、不幸への近道です。神は、性急な成熟を願っておられません。フレディック・ホールダリンは、「深く考えられる神が嫌うものがある。それは、時いたらぬ成長だ」と言いました。
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