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マタイの福音書の恵み ⑯
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復讐に関するイエスの解釈 ③ |
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オンヌリ教会 主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
これまで、復讐の思いに駆られたとき、どう対処すべきかについてイエスはどのように教えられたかを見てきました。復讐に対するイエスの答えは、「悪い者に手向かうな」でした。これは、悪い者を避けたり妥協したりするのではなく、悪をもって悪に報いるなという意味です。 また、現実的に私たちが出会う難しい四つの例に挙げてくださいました。一つめは前回学んだように、右の頬を打たれたら左の頬も向けなさいというみことばです。これは、手の甲で右の頬を打たれるような侮辱を受けても、左の頬を向けることができるくらいの愛と赦しを与えなさいという積極的な方法を提示したものです。 二つめは「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい」(マタ 5:40)。これは、濡れ衣を着せられて法廷まで連れて行かれ、身の安全と権利が奪われるような場合です。強圧的な人は、手段や方法を選ばず、法を悪用し、純粋で何の力もない人々を苦しめ、搾取します。このようなとき、私たちはどうすべきなのでしょうか。 今日、世間ではだれもが自分の権利を主張し、守ることに躍起になっています。自分の権利を主張するために、他人の権利を踏みにじることも多々あります。世は、権利宣言で満ちあふれています。権利宣言とは、人間の基本的自由を守るもので、個人の意思表現の自由や宗教、出版、集会の自由、政治参与の自由、財産所有の自由、経済活動の自由などが含まれ、裁判の権利や法的平等の権利もあります。 どの国でも建国以来、憲法があり、その憲法に明示された国民の基本的な権利があります。こうして見ると、人間が権利を持つことは非常に大切で、人間のすべてであるかのようです。しかし問題は、権利は高らかに謳いながら、当然果たすべき義務には関心がないということです。自分の権利ばかりを求めるのは、その心の奥深くに利己的で自己中心的な罪の性質があるからです。 世の中は、権利や主張であふれています。夫と妻、親と子、政府と国民、先生と学生の間には、終わりのない自己の権利主張と争いばかりです。このような問題について、イエスは何と言われているでしょうか。 「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい」(マタ 5:40)。 このみことばは、下着を奪われないように抵抗するのではなく、上着まで与えることで問題を別の次元で解決するというイエスの方法です。これを実践するのは、容易ではありません。このみことばの意味を理解するために、当時の法律を見てみましょう。当時、下着は木綿や亜麻で織った一枚の筒のようなもので、キトン(chiton)と呼ばれていました。上着は、さまざまな色で華やかに作られ、昼は衣服として、夜は布団として使われていました。そのため、ユダヤ人の法律では、下着は抵当に取れても、どのような理由であっても上着は抵当に取れないようになっていました(出 22:26~27)。 裁判にかけられ、下着が奪われようとするとき、法的に差し出さなくてもよい上着までも与えなさいと言われるイエスの意図は、どこにあるのでしょうか。 すべてのクリスチャンには持つべき権利があります。しかし、決してその権利に執着してはなりません。世の人々は血を流して戦い、さまざまな企みを駆使して自分の権利を主張します。 しかし、イエスは、まことのキリスト教の精神は自分の権利を主張しないことだと言われます。クリスチャンは、法的な権利を主張してまで自分の利益を追求する人ではなく、むしろほかの人の権利を尊重し、積極的に助ける人であるというのです。このように見ると、「それでは、悪が勝ってしまう」と思い、悪者が世を支配するのではないかと不安になるかもしれません。しかし、必ず善は悪に打ち勝ち、愛は憎しみに打ち勝つものです。 世の人々は、自分の権利を守るために手段と方法を選ばず、このように言います。「必ずそれを手に入れろ。そのためには、不正を行ってもよい。」「それを放棄すれば、ここで終わりだ。国が滅びようが滅びまいが、会社がつぶれようがつぶれまいが、家庭が崩壊しようがしまいが、だれが死のうが関係なく、必ずその権利を手に入れなければならない。」これこそ世俗の精神であり、無神論者のことばなのです。 では、ここでピリピ人への手紙を見ていきましょう。 「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(ピリ 2:5~8)。 イエスがご自分の権利を主張していたら、私たちはどうなっていたでしょうか。イエスが人間になることを拒み、十字架にかかることを拒まれたとしたら、私たちの救いはあったでしょうか。イエスは、ご自分の権利を放棄されただけでなく、受けるべき栄光をひとつとして受けられませんでした。力があってもそれを用いられず、権利を主張できても主張されませんでした。かえって損をし、迫害を受け、権利を捨て、それどころか積極的に赦し、愛し、和解者となってくださったのです。 問題は、このような権利を追求する世俗的な精神が教会内に入り込んで、互いの権利を主張していることです。「私は、この教会の功労者だ」「私は、この教会の創立メンバーだ」「私は、献金をたくさんしている」「私は、奉仕をたくさんしている」と騒ぎ立てて、権利を主張しています。このような声が大きくなると、教会にひびが入り、争いが起こり、崩壊します。これが、過去20年間、韓国教会が崩壊した理由であり、教派争いの理由でもあるのです。 自分の権利ばかりを主張する態度を捨てましょう。下着をくれと言われたら、上着まで与えましょう。むしろ、もっと愛せないことを謝り、もっとゆずれないことを申し訳なく思って生きましょう。抵当に取ることのできない上着までも与えるなら、愛と赦しの奇蹟が起こるでしょう。 もしかしたら、上着を取られ、苦しんで恥をかく月日が何十年も続くかもしれません。しかし、神は私たちの人生に究極的な勝利を与えてくださいます。ですから、多くの宣教師たちが自分の持っている権利をすべて捨てて奥地へと入って行くのです。また、多くの人々が安楽に暮らせる権利をすべて捨ててスラムへ入って行き、生涯を彼らとともに生きるのです。 マザー・テレサは、受けるべきすべての権利を放棄し、自ら束縛を受け、自ら貧しくなり、苦難を引き受け、非難され迫害されながらも、天を見上げて、喜びに満たされて生きました。
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