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喜びの霊性②
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悲しみの牢獄で学ぶ喜び② |
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カン・ジュンミン ● ニュー・ライフ・ビジョン教会 主任牧師
喜びを奪うもの、人 人は、私たちに喜びを与え、また傷つけるものです。事実、私たちを苦しめるのは、状況よりも親しい人です。人間関係を越えて喜びを味わうためには、人間に対する正しい理解を持つ必要があります。人間は、私たちが愛すべき対象であり、変えるべき対象ではありません。人を変えるのは、神がされることです。もちろん、神が人を変えてくださるために、私たちは、人が変われるような雰囲気を作り、機会を与えなければなりません。しかし、私たちは根本的に人を変えることはできません。残念なことに、私たちは自分の力で人を変えようとする間違った思いを抱いています。 人に対する過剰な期待や間違った期待は、私たちを不幸にします。ですから、期待を少し低くしてください。何よりも、すべての人を喜ばせようという考えを捨ててください。すべての人を喜ばせることはできません。イエスも、パリサイ人や律法学者を罪人だと言われて、喜ばせることはできませんでした。すべての人を喜ばせることはできませんが、神を喜ばせることはできるということを覚えてください。 もう一つ、人間関係を越えて喜びを味わうことができる方法は、神が私たちの成熟のために人を用いられると信じることです。神は、人の心を治めておられます。イスラエルの民がエジプトから出るとき、神はエジプトのパロの心をかたくなにすることによって、御心を成し遂げられました。神は、私たちを愛する人だけではなく、苦しませる人の心までも、治めておられることを信じてください。 また、神が不完全な人間関係の中でもすべてを働かせて益としてくださるということを信じてください。だからといって、故意に悪を行う人の悪も神の御心であると誤解してはなりません。悪を善としたり、間違ったことを正当化してはなりません。間違いは間違いと認めなければなりません。神が介入してくださるならば、人間の失敗も正しく用いてくださり、神の御心をなしてくださると信じてください。パウロの周りには、党派心や争いを引き起こす人、敵対する人がいました。しかし、パウロは、神の御心がなされるために、福音が宣べ伝えられるためにそれを喜びました(ピリ 1:15~18)。
喜びを奪うもの、思い煩い 現代人の最大の敵は、思い煩いです。精神安定剤は、最も多く売れている薬です。どの時代よりも生活水準は高くなって快適なはずなのに、どの時代よりも思い煩いの多い時代に私たちは生きています。思い煩いにとらわれて、頭の中は思い煩いでいっぱいになり、思い煩いが習慣になっている人も多くいます。思い煩いは「心が分かれる」ということばから来ています。思い煩いは、心を分散させ、私たちを苦しめる怪物なのです。 ピリピ教会の聖徒も多くの思い煩いを抱えて、喜ぶことができないでいました。パウロは、思い煩いを克服する秘訣を教えました。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリ 4:6~7)。 目の前の現実がどのようなものであっても、思い煩うかどうかは選択です。また、思い煩いは、間違った想像力です。それは、過去の問題や失敗に関係しています。思い煩う代わりに祈って、感謝を数えてください。そうすれば、思い煩いは去り、神の平安が訪れます。 また、思い煩う代わりに、未来を思い描いてください。思い煩いとは、うまくいくわけがないと想像することです。しかし、それは堕落した想像です。一方、未来を思い描くのは、神の助けによって驚くべき未来が展開されると信じる、聖なる想像です。必ず神がすべてのことを働かせて益としてくださる未来があると信じ、神の勝利を信じてください。
喜びを奪うもの、金銭や財産 貧しさを知らない人は、貧しさがもたらす経済的な困難を知りません。経済的な困難は、心の中の喜びをすべて追い出してしまいます。貧しさは罪ではありませんが、貧しさがもたらす不自由のために喜びを失うことはあります。人間は、金銭の前には弱いものです。金銭から自由でいることは簡単なことではありません。 パウロは、経済的な問題のために苦しんでいるピリピ教会の聖徒に言いました。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富を持って、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリ 4:19)。パウロも経済的な問題のために苦しみましたが、金銭の奴隷になりませんでした。また、喜びを失いませんでした。むしろ、物質的なものを越えて、喜ぶ秘訣を学びました。それは自然に学べるものではありませんが、学ぶべきことであり、訓練が必要です。 物質的な問題を越えて喜ぶことができる秘訣は、まことの富は金銭ではなく、イエスにあるということを悟ることです。イエスこそ富と豊かさの源です。パウロは、すべての豊かさの源なる方とつながっていたので、どのような状況の中でも富んだ人でした。金や銀はなくとも、イエスとともにいる人は、富んだ人なのです。パウロは、どんな境遇でも適応することによって満ち足りる方法を学びました(ピリ 4:11~12)。 人を豊かにするのは、心です。ヘンリー・ワード・ビーチャーは、「財布を開けただけでは、その人が金持ちか貧しいかはわからない。人を金持ちにするのは、心である」と言いました。このように、金銭を越えた喜びを味わうためには、満ち足りる訓練、少ないものでも満足する訓練をしなければなりません。 変えられないものを受け入れる知恵が必要です。変えられないのならば、楽しむ術を学んでください。お金がないため貧しく生活しなければならないのならば、貧しさの中でも満ち足りる方法を学んでください。貧しさに打ち勝つ方法を学び、貧しさを乗り越える方法を探してください。収入は能力に左右され、努力ですべてがうまくいくわけではありません。ならば、お金の有無や額を越えて喜ぶことができる方法を選択してください。富むことにも、乏しいことにも対処する秘訣を学んでください。
喜びの源であるイエスと親しくする パウロは、喜びの鍵は、環境や人、金銭にあるのではなく、イエスにあることを知っていました。イエスこそが喜びの泉であり、源です。泉に近づくこと、そこに留まることが知恵です。パウロは喜びの泉の中に住み、そこから喜びの水を飲みました。 喜びを願うならば、喜びを持っておられる方の前に進み出てください。まことの喜びは、イエスの中にあります。イエスの直面した状況は、とても喜べるようなものではありませんでしたが、イエスには人が知らない喜びがありました。十字架を前にして、主は弟子たちにこのように言われました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハ 15:11)。イエスの喜びは、世が与えるものとは違います。十字架の向こうにある復活の栄光を見て、味わう喜びです。苦しみを避けるのではなく、苦しみの中を通り抜ける喜びでした。 パウロの喜びも、苦しみを打ち破って進む喜びでした。痛みや苦しみのために不平不満を言うのではなく、痛みを包みこんで真珠を作り出す喜び、それがパウロが私たちに教える喜びです。 では、イエスが私たちにくださった喜びは、いつ満ちあふれるでしょうか。それは、神の御心をなすときです。悲しみが深くなるように、喜びも深くなり、そして満ちあふれます。福音とはよい知らせのことですが、よい知らせを伝えるとき、私たちに喜びは満ちあふれます。 神が喜ばれることを喜ぶことが、クリスチャンではないでしょうか。神が喜ばれるのは、罪人が福音によって悔い改めて救われることです(ルカ 15:7)。ですから、イエスを証ししてください。そうすれば、不思議な喜びに満たされることでしょう。人を主に導き、弟子として成長するように助けてください。この世では、味わうことのない喜びを知ることでしょう。パウロが捕らわれていたローマの牢獄には、パウロが育てたテモテがいました。テモテはパウロに喜びを与えました。テモテとの友情がパウロを豊かにしたのです。 憂うつとは、罪ではなく、現象です。気質や心の習慣でもあるでしょう。しかし、神は私たちが憂うつの中に留まることではなく、喜びを選択することを望まれます。悲しみの牢獄に捕えられているからといって失望しないでください。牢獄の中で神に出会ったパウロを思い出してください。どのような状況の中でも主を考えてください。いつも喜んでください。罪や環境の奴隷になるのではなく、パウロのようにイエスのしもべになってください。そうすれば、すべてのものから自由になることができます。 喜びや幸せを遠くで探そうとしないでください。ジョージ・ムーアは「人は、必要なものを求めて全世界をさまようが、家に帰ってきてそれを発見する」と言いました。私たちの家は、私たちの心です。心の中には、キリストの心があります。イエスが住わまれる私たちの心の中にキリストの心があります。私たちの心の中に、私たちの探す喜びがあるのです。
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