|
マタイの福音書の恵み ⑭
|
復讐に関するイエスの解釈 ① |
|
オンヌリ教会 主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
今月からは、復讐に関するイエスの解釈について分かち合っていきましょう。復讐とは、罪人である人の本能の代表的なものです。人は、害を加えられると復讐したいという衝動を感じるものです。また同時に、人は自分の特権と権利を主張するものです。人の権利は非常に大切なものですが、それを主張することで生じるさまざまな問題について、イエスはこのように語っておられます。
復讐は罪人である人間の本能 復讐の社会は、恐ろしく、残忍なものです。人が特権と権利だけを主張して生きるなら、この社会は殺伐とした無慈悲な社会へと変わってしまいます。特に、今日の私たちが暮らす時代には、この二つの特徴が顕著に表れています。 それは正義という名で行われている報復と復讐であり、自分の権利を求めよという民主化の名による無秩序と暴力です。権利は手放してはなりませんが、私たちは目に見えるものよりも、その裏に隠れた人間の邪悪さを見なければなりません。人は自分の利己的な動機と欲を、美しい名のもとに合理化しようとします。 パリサイ人と律法学者たちは、だれよりも神のみことばを研究していました。しかし、彼らは自分の必要に応じてみことばを巧妙に利用し、人間の罪や本能、悪をおおい隠してしまいました。イエスはそれを指摘されました。 「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています」(マタ 5:38)。「目には目、歯には歯」ということばは、旧約で3回も出てきます。三つの聖書個所をあげて、律法のまことの意味と精神を考えてみましょう。 「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷」(出 21:23~25)。 「もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない」(レビ 24:19~20)。 「あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足」(申 19:21)。
残忍な法ではなくあわれみの法 この律法は残忍で無慈悲なようですが、前後の文脈と全体的な意味を考えると、二つの意味が含まれていることがわかります。 一つめに、これは報復と復讐の悲劇が広がらないように被害を最小限に留める方法であるということです。すなわち、復讐の法ではなく、あわれみの法なのです。これは、離婚や誓いのケースと同様、律法の精神です。財産と身体に損害を受けた人は、やるせなく悔しくて、自分が受けた以上の復讐を願うものです。悪口を言っても一言多く、憎しみはふくらむばかりなので、聖書は自分が受けた分だけ復讐せよと制限しているのです。復讐とは、いつも血の流れる残忍な行いです。 また、個人の問題が集団の問題に広がるのを防ぐためです。つまり、一個人が被害を受けたとき、被害者の集団が加害者の集団に攻撃すれば、それは恐ろしい戦いを引き起こす原因になります。そこから部族争い、国家争いが生じます。この律法は、個人が受けた分だけの復讐を許し、さらに大きな不幸が起こらないように制限するものなのです。 個人の意見は重要視せず集団行動が多いのが、現代の社会構造です。「そんな気はないけど、ほかの人たちがするから・・・」と、個人の道徳的な判断とは関係なく、集団の組織悪が問題になっています。加害者でも被害者でも同じです。一個人が罪を犯したかどうかが問題にならないため、神の御前から逃れることができることが問題なのです。 また、いくら自分がきよく正しく生きようとしても組織が悪いからと、「この組織と構造を壊すべきだ。体制を変えねばならない。基本秩序を壊さなければ、この悪はなくならない」と主張するならば、大きな争いが起こります。神は、より大きな不幸が起こらないようにこの律法を与えてくださったのです。
裁判の公義の基準 二つめに、このみことばは裁判を公平にするために基準を立てたものです。律法は、公の裁判で用いるために作られ、決して私用のために作られた法ではありません。公に用いられずに個人の権力と利益のために用いられれば、大きな問題が生じます。 古代の法は、一種の復讐法でした。しかし、神の律法はあわれみと愛の法です。古代において、ハムラビ法典は日常生活の原理でした。その法典の中には聖書のような内容もありますが、その精神は根本的に異ります。神がここまで民を愛し、赦し、さらに大きな罪を犯すことを防ぐために作ってくださった法を、パリサイ人と律法学者たちは人間が復讐したいときに復讐できるような合理的な法としてしまいました。そして、公に用いるべき法を、各自が思うままに用いられるようにしてしまいました。殺人、姦淫、離婚の場合と同じです。これはなんと恐ろしい罪でしょうか。自分たちだけではなく、イスラエル全体を神の愛から離す結果を生み出してしまったのです。 復讐を制限する姿勢と、復讐を合理化する姿勢には、大きな差があります。
善をもって悪に打ち勝つ イエスは、だれもが持ちえる復讐したいという感情、そして自分の権利を主張したいという感情について、何と教えられているでしょうか。 「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタ 5:39)。 この「悪い者に手向かうな」というみことばを間違って解釈すると、悪い者を避けたり、悪と戦うことを放棄することだと考えてしまいます。「敵対する」というヘブル語の動詞「アンティステミ」は断固として抵抗したり反対するという意味なので、これは悪を行うサタンには断固と敵対するが、サタンの力によって悪を行う人々には復讐するなという意味なのです。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコ 4:7)、「外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい」(Ⅰコリ 5:13)とあるとおりです。 ある意味、私たちクリスチャンは不義と罪と悪に対して消極的なのかもしれません。しかし、イエスは私たちに、悪に対して知らん振りをしたり、悪い行いを黙認しなさいと言われたのではなく、悪を行う人に復讐するなと言われました。次のみことばの通りです。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。…自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』…悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ 12:17~21)。
|
|
|
|
|