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聖徒の敬虔訓練⑰
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苦痛と敬虔訓練 |
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ホン・インジョン ● 長老会神学大学 実践神学教授
「苦痛」を辞書で調べると「体や心の苦しみと痛み」とあります。心や体に苦痛が訪れたとき、私たちはどうにかして一刻も早くその苦痛から逃れようと力を尽くします。果たして、避けられない苦痛は、神に似ていくための訓練になり得るのでしょうか。また、どうしたら苦痛が私たちの人生によい影響力をもたらすようになるのでしょうか。
父なる神と苦痛 神は、エジプトで奴隷生活をし、しいたげられていたイスラエルの嘆きを聞かれました(出 2:24~25)。神はイスラエルを苦痛の中から救い出された方です(出 3:17)。ペテロは、神がイエスを死の苦痛から解き放ち、よみがえらせたと宣言しています(使 2:24)。詩篇の著者は、患難の中で主に呼ばわり、苦痛から助け出してくださった神を告白しています(詩 107:13)。同時に、父なる神は、罪による苦痛にとどまることを許されます。預言者エレミヤは、「あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める」(エレ 2:19)と警告しています。罪によって神と遠く離れた人間は、苦痛の中で生きるほかないのです。
子なるイエスの苦痛 イエスの苦難は、むちで打たれ、十字架につけられる肉体的な苦痛だけでなく、弟子たちに捨てられ、神と離れる痛みまでを含んでいます。罪のない子なる神が、私たちの罪のために、父なる神と離れた状態になりました(マタ 27:46)。イエスは、苦しめられている者を決して忘れたりはされず、苦痛の中からイエスの前に来た者をいやされました(マタ 4:24、ルカ 7:21)。
聖霊なる神と苦痛 パウロは、自分の民族の救いのために、心に悲しみと痛みがありました(ロマ 9:3)。「…次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」(ロマ 9:1~2)。自分の民族の救いに対する心の悩みと苦痛を、聖霊は知っておられ、ともに心を痛めてくださいます。 私たちは聖霊なる神を悲しませることもありますが(エペ 4:30)、聖霊は弱さによって苦しむ私たちのために「言いようもない深いうめき」(ロマ 8:26)によってとりなしをしてくださいます。聖霊なる神は、時に心を痛めてうめく、人格を持った神です。また、罪と不義のために苦痛の中にいる人にも、「神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められた」(Ⅰコリ 6:11)と言ってくださる回復の神です。また、聖霊なる神は、多くの患難と苦痛の中でも私たちを「聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者」(Ⅰテサ 1:6)としてくださいます。
聖書の中の苦痛の話 ヨブ記では、苦痛をさまざまな表現で表しています。イエスがサタンの試みにあわれたように、ヨブはサタンの試みから始まった苦痛を経験しつつ、神との関係の中で何を選び取るかの岐路に立ちます。子どもと財産を失ったとき、ヨブは「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ 1:21)という驚くべき告白をしています。また、これらについて神に不満を言うことなく、罪を犯しませんでした(ヨブ 1:22)。しかし、体にできた悪性の腫物による苦痛に襲われたとき、ヨブは生まれた日をのろい(ヨブ 3:1)、自分には安らぎもなく、休みもなく、いこいもない、ただ心がかき乱されるばかりであると嘆いています(ヨブ 3:26)。後になって、ヨブは苦痛の中で神に出会い、悔い改めます(ヨブ 42:5~6)。ヨブのように原因のわからない苦難と苦痛を味わう時があります。大切なことは、苦痛の中でも罪を犯さないように、神に信頼しなければならないということです。 サウル王は、戦いで負傷すると、「さあ、近寄って、私を殺してくれ。まだ息があるのに、ひどいけいれんが起こった」(Ⅱサム 1:9)とアマレク人の青年に頼みます。時として、サウルのように苦痛のあまり、いのちを捨ててしまいたくなる誘惑に駆られることがあります。 ダビデも苦痛を味わいました。ダビデ王が人口調査をして罪を犯したとき、神は神が負わせる三つのうちから一つを選ぶように語られました。これにダビデ王は、「それは私には非常につらいことです。主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです」(Ⅱサム 24:14)と言います。彼は苦痛の中で、神からの直接の懲らしめを選択しました。神のあわれみに信頼していたからです。
日常生活を苦痛とともに過ごす 苦痛の益と意味 苦痛は苦しく、避けて通りたいものですが、益をもたらすこともあります。苦痛は私たちを謙遜にします(詩 107:12)。また、苦痛のために私たちは神に叫び、神は私たちを苦痛から助け出して導き(詩 107:6, 28)、答えてくださいます(詩 118:5)。ですから、苦痛の中にあるとき、苦痛が益をもたらすことを覚え、神の御前にへりくだって祈らなければなりません。ヨブは、自分を責めた友のためにとりなすことで苦痛から逃れ、神から多くの祝福を受けました(ヨブ 42:10)。このように、苦痛には目的と益があります。 C.S.ルイスは、「苦痛は耳の閉ざされている世を呼びさます神のメガホンである」と言いました。苦痛は、神が私たちの目を覚まさせるためのものであり、神だけを見るように導きます。その時には苦痛と戒めは楽しくなく、悲しく思えますが、後にはそれによって練られ、きよめられた者となり、平安の実を結ぶようになります(ヘブ 12:11)。 イザヤは、「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした」(イザ 38:17)と告白しています。苦痛は、平安をくださる神の御心であり、滅びから救い出してくださる神の大きな愛であると宣言しています。神の人は、理解できない苦痛の中にも神の御心があり、目的と益があることを信じています。また、死や悲しみ、叫びや苦しみのない(黙 21:4)、天の御国を信じる信仰によって希望を持つのです。 一方、神の御心の通りに生きる人には、試練と迫害と苦難が伴うものです(Ⅰペテ 4:19)。義のゆえに苦難を受けることもあり(Ⅰペテ 3:14)、善を行ったがために苦難を受けることもあります(Ⅰペテ 3:17)。ですから、聖書は、苦難の中で喜び、「キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい」(Ⅰペテ 4:13)と命じています。
苦痛とともに生きようとするなら 一つめ、苦痛の中にいるとき、悔い改める罪がないかどうか、心を探ってみてください。罪のためにもたらされる苦痛であるなら、罪を悔い改めるまではその苦痛から逃れることができないからです。神は私たちに語られます。「なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは直らないのか。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いため、わたしはこれらの事を、あなたにしたのだ」(エレ 30:15)。 二つめ、苦痛の中でもみことばに従うことを決断してください。ヨブが終わりの見えない苦痛の中でも慰めを受けて喜ぶことができたのは、聖なる神のみことばを拒んだことがないからだと告白しています(ヨブ 6:10)。神のみことばに従うことによって、慰めを得て、喜ぶことのできる力を受けられるのです。 三つめ、苦痛の中でもっと祈ってください。ヤコブは「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい」(ヤコ 5:13)と勧めています。時として、やりきれないような苦痛を味わったり、不当な苦しみを受けることがあります。そんな時、神のことを考えて悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです(Ⅰペテ 2:19)。神のことを考えるということは、神に集中して祈るということだからです。 四つめ、教会共同体とともにいてください。聖書には、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(Ⅰコリ 12:26)とあります。私たちは、一つの体をなす教会共同体とともにいることにより苦痛に打ち勝つことができるのです。 五つめ、苦痛の中でイエスのことを思い、黙想し、イエスにならってください。イエスは試みと苦難を通られたので、試みと苦痛の中にある私たちを助けることのできるお方です(ヘブ 2:18;4:15~16)。キリストが私たちのために苦しまれたのは、私たちに模範を残し、その足跡に従うようにさせるためです(Ⅰペテ 2:21)。信仰の創始者であり、完全者であられるイエスを見上げ、黙想してください。そうするなら、苦痛を味わい、疲れたとしても、落胆せずにいることができるのです(ヘブ 12:2~3)。 六つめ、だれでも苦痛は避けたいと考えるものですが、どんな人であっても苦痛を味わうということを覚えてください。未来学者であるアルビン・トフラーは、「苦痛の総量の法則」を主張しました。人生で味わう苦痛の総量は、みな同一であるということです。苦痛を味わうとき、自分はほかの人よりも先に苦痛を受けただけだと考えてみるのです。「女が・・・子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます」(ヨハ 16:21)。 いのちの喜びが産みの苦しみを忘れさせてしまうように、後の日の栄光の復活は今日の患難や苦痛とは比べられないほどの大きな喜びなのです(ロマ 8:18)。
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