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聖徒の敬虔訓練⑭
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ともにいることと敬虔訓練 |
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ホン・インジョン ● 長老会神学大学 実践神学教授
大勢の中の孤独ということばがあります。神は私たちに「ともにいるように」と教えられましたが、人々はともにいようとしません。ともにいたいけれども、拒絶を恐れるあまり、ほかの人に近づくことができないこともあります。最近は、イヤホンやヘッドホンをして歩いている人をよく見かけます。自分だけの世界に閉じこもり、隣人と心を通わせることを自ら絶ち、拒否しているのではないでしょうか。 「ともに」とは、「一度に」「互いに」「互いに合わさり、同一になる」「一つになる」という意味を含んでいます。時には、集団を離れ、一人で神に出会う訓練が必要です。しかし、神がともにいるように備えてくださった家族、友人、隣人と互いに交わり一つになることを通して、神の国が広げられることも重要です。では、真の意味で「ともにいる」ことをどのように日常の敬虔生活で実践していけるかを見てみましょう。
ともにおられる三位一体の神 神はともにおられる三位一体の神です。宇宙万物を造られ、人間を創造されたときも、三位一体の神がともにおられ、互いに思いを通わせながら、ともに造られました(創 1:26)。 ことばであられる子なる神は、世の初めから父なる神とともにおられました。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった・・・」(ヨハ 1:1)。 また、子なるイエスは、私たちが聖霊と永遠にともにいるように、父なる神に助け主を送ってくださるように求められました(ヨハ 14:16)。聖霊なる神は、父なる神から来られました。その方は「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハ 14:26)であり、「父から出る真理の御霊」(ヨハ 15:26)です。 父なる神を見せてくれというピリピにイエスは、「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハ 14:9)と答え、「互いに合わさり、同一であり、一つ」であることを宣言されました。このように、父なる神、子なる神、聖霊なる神はともにおられます。また、父なる神(エレ 46:28)と子なる神(マタ 28:20)と聖霊なる神(ヨハ 14:16)は、いつも私たちとともにおられます。
聖書の中に見られる「ともにいること」 イエスの別の呼び名はインマヌエル、すなわち、「神は私たちとともにおられる」(マタ1:23)です。イエスは私たちとともにおられると同時に、常に神とともにおられました。さらには、迫害のために弟子たちが散らされても、イエスは決してお一人ではありませんでした。「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。…しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」(ヨハ 16:32、ヨハ 8:16 参照)。 神は、ともにいることを意図して男と女を創造されました。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」(創 2:18)。そして造られた夫婦に贈った神の祝辞は「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創 2:24)でした。すなわち、二人がともにいることによって、まことの意味で一つになりなさいと祝福されたのです。ですから、善悪を知る知識の実を食べたアダムは神に「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」(創 3:12)と言い訳したのです。彼はエバが自分とともにいるべきパートナーであると知っていましたが、彼女に責任を転嫁しました。聖書は、エバが「その実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えた」(創 3:6)と記しています。彼らはともにいながら、別々に罪を犯しました。蛇は「あなたがた」(創 3:1~5参照)と呼びかけていますが、これに答えた人はエバ一人でした。その横にアダムがいたかどうか、聖書は詳しく記していませんが、はっきりしていることは、誘惑を受けたときに二人の心が一つになってはいなかったということです。 トマスは信仰の共同体とともにいなかったために、復活の後、弟子たちに現れてくださったイエスに会うことができず、疑いました(ヨハ 20:24~25)。ともにいるべき時に共同体におらず、人生の危機に直面する人々が増えています。夫婦や家族がともにおらず、教会の聖徒が信仰の共同体から離れることによって、個人や家庭、社会には多様な問題が起きるのです。 パウロはローマの牢で自分の霊的な子であるテモテに、周囲の人々は自分を捨て(Ⅱテモ 4:16)、それぞれ去って行き、ただルカだけがともにいると言いました(Ⅱテモ 4:10~11)。不屈の情熱で奥地にも通い、宣教してきたパウロも、人生の晩年には「何とかして、早く私のところに来てください」と言って、テモテとともに過ごすのを待ち望んでいます。そして第1次宣教旅行の途中であきらめて、戻った「マルコを伴って来るように」と言い、ともにいることの重要性を語り、呼び起こしています(Ⅱテモ 4:9~11)。 また、イエスは「ぶどうの木と枝」のたとえを通して、私たちはイエスとともにいなければならないことを語られました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハ 15:4~5)。イエスとともにいなければ、何もできません。しかし、イエスとともにいるなら、実は自然に結ばれると約束されました。
日常生活でともにいることを訓練する サウルは自分よりも人々に認められているダビデを不快に思い、非常に怒りました(Ⅰサム 18:8)。ダビデが知恵深く行動できたのは、神がダビデとともにおられたからで(Ⅰサム 18:12)、サウル王もそれを知っていました(Ⅰサム 18:28)。神がともにおられる人には、ダビデのような力が現れます。では、どのように日常生活で神がともにおられる恵みを味わうことができるでしょうか。 第一に、神と「ともにいること」を訓練しなければなりません。神とともにいる訓練は、神の御前でひとりでいる訓練から始まります(1月号参照)。神が私たちとともにおられることをいつも覚え、いつでも思い出せるように、「ともにいること」に関連する聖書個所を暗唱したり、記す習慣をつけることもよいことです(申 31:8、詩 46:7, 11、イザ 41:10;43:5)。 第二に、ともにいるために祈ってください。「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください」(ヨハ 17:5)。私たちもイエスのように、神とともにいて味わった恵みの記憶を思い出し、日常生活において神とともにいるすばらしい栄光が現れるように祈らなければなりません。 第三に、家族や隣人と交わり、ともに過ごす訓練をしなければなりません。イエスは「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます」(ヨハ 8:29)と言われました。神が喜ばれること、すなわち、「あなたがたが、神が遣わした者を信じる」(ヨハ 6:29)、その時に、神は一人にさせないと約束してくださいました。インマヌエルであられるイエスのように、私たちも神のみわざを行うときに、神は喜んでくださいます。神のみわざとは「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせる」(ルカ 4:18~19)ことです。神はイエスを通して家族、隣人を顧み、交わることを喜ばれます。「神は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄えさせられる」(詩 68:6)とは、孤独な者たちは家族とともにいなければならないという意味もありますし、家族とともにいることで孤独な者がないようにしなければならないという意味もあります。 また、牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、苦しめられている人々を顧みなければなりません(ヘブ 13:3)。モーセが「神の民とともに苦しむことを選び取った」(ヘブ 11:25)と言ったように、私たちも、このような心を持つべきです。すなわち、私たち自身が中心になるより、私たちの関心と配慮が必要な人々のことを考え、ともにいてあげるべきなのです。 家族、隣人とともにいるためには、空間的に一緒にいることが重要です。しかし、距離があってもさまざまな方法でともにいることができます。携帯電話やメールアドレス、住所録などを見て、以前は親しい関係だったのに離れてしまった家族、友人、教会のメンバーたちを探して、近況を伝え、ともに過ごす関係を回復することもできます。また、書く習慣を通して祈りの課題や苦難などを回想し、現在の生活を分かち合うことによって心を開き合い、ともに過ごす関係を経験することができます。短い旅行、1~2時間会うこと、ビデオ通話などを通して、ともにいることもできます。また、別れるときは「主があなたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように」(Ⅱテモ 4:22)という祝福のことばで、相手が神とともにいることを願い、祈りましょう。 私たちは、私たちとともにいる神を信頼し「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから・・・」(詩 23:4)と告白することができます。また、主をきよい心で呼び求める者たちとともに義と信仰と愛と平和を追い求めることができます(Ⅱテモ 2:22)。二人が一人よりもまさっている理由は、ともに労苦することでよい結果、よい報酬を得るからです。また、倒れるとき、起こしてくれる人がいない人はかわいそうな人です(伝 4:9~12)。このように「ともにいる」ことには、報いと恵みがあるのです。
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