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マタイの福音書の恵み ⑨
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殺人に関するイエスの解釈① |
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オンヌリ教会 主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
イエスは「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」(マタ 5:20)と言われました。このみことばは、クリスチャンの人生の基準と原理が「義」であることを示しています。つまり、「正しく生きる」ことを、すべてのクリスチャンが追い求めなければならないのです。これは律法と預言者たちの教えであり、イエスの教えの核心でした。このようなクリスチャンの人生の原理にしたがって、イエスは実際的な六つの例、殺人(5:21~26)、姦淫(5:27~30)、結婚(5:31~32)、誓い(5:33~37)、報復(5:38~42)、復讐に関する問題(5:43~48)をあげて説明されました。
罪の実であり結果である殺人 まず、一つめの例である殺人に対するクリスチャンの態度に関して、見ていきましょう。 「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタ 5:21~22)。 罪を犯した人間の最初の行動は殺人でした。「カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した」(創 4:8)とあり、レメクはその妻たちに「・・・私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した」(創 4:23)と言ったとあります。殺人は罪の実であり、結果なのです。さらに、自殺や中絶まで合わせると、その数は計り知れません。ですから、聖書は、人を殺してはならないと律法によって命じました。しかし、罪がある所には殺人があります。今も、人間の心の深い所には殺人が蛇のように渦巻いています。今日、殺人事件のニュースがよく流れ、小説や映画の主題にもなっています。 パリサイ人と律法学者たちも、人を殺してはならないというみことばをそのまま信じ、従っていました。しかし、イエスは彼らの持つ殺人に対する考えが間違っていると語られました。イエスは、その理由を二つ指摘されています。
昔の人々に・・・言われたのを 一つめに、パリサイ人と律法学者たちが、この個所を伝統的な解釈を経て、みことばと伝承が混ざったものを人々に教えていた点にあります。ここに、間違った結果を生む理由があるのです。 これはまるで、宗教改革以前にカトリックの司祭たちが聖書を人々が理解できないラテン語で読み聞かせたのと同じです。そのため、人々は全く理解できないみことばを聞くしかなく、聖書の本来の意味よりも、ローマ・カトリックの伝統的な解釈を神のみことばと信じ、従ったのです。たとえば、救われるためには、聖体拝領やマリヤを信じること、そして教皇の絶対権威を信じなければなりませんでした。さらに、中世時代には、これを買えばすべての罪が赦されるという免罪符を販売したことも、このような伝統による解釈の結果でした。 100年が過ぎた韓国の教会も、伝統と習慣が生まれ始めています。しかし、教会は聖書のみことばの本来の意味に戻らなくてはなりません。聖書の権威よりも高いものがあってはなりません。皆さんがみことばに接しているのは、聖日の説教だけでしょうか。しかし、これだけでは完全ではありません。牧師の説教がいくらすばらしくても、聖書を個人的に深く読んだり研究したりせずに説教だけに依存してしまうならば、説教者の偏見と趣向に偏った病んだ信仰を持ってしまう危険があります。聖書を読み、聞き、研究し、暗唱し、黙想をしないでいるなら、聖書の本来の意味を悟ることはできません。 私たちが、日々QTをするべき理由がここにあります。偏った信仰は間違うこともあります。それが伝統になって、イエスの精神と正反対に立つ結果を生むかもしれません。神を愛して礼拝したパリサイ人と律法学者たちが、イエスのことばを聞いてもイエスと違う立場に立ったのは、まさにそのためでした。伝統、組織、秩序は重要です。しかし、そのようなものが聖書よりも高い権威を持ってはなりません。私たちが聖書に立ち返るとき、悔い改めの働きが起こり、組織の悪い点がすべて直されるのです。 神のさばきと人間のさばき 二つめの間違った部分は、パリサイ人と律法学者たちがみことばを歪曲し、縮小したという点です。「殺してはならない」の次に、「人を殺す者はさばきを受けなければならない」と記されています。ここでもパリサイ人と律法学者たちは、さばきを神のさばきではなく、人によるさばきであるとその意味を変えてしまいました。みことばをこの世の次元に格下げし、神の御前での罪ではなく、世の法廷での罪の問題に変えてしまったのです。 殺人の問題は、人間がさばく問題ではありません。人間を造られたのは神なので、殺人の罪をさばかれるのは神です。しかし、パリサイ人と律法学者たちは、人間のさばきで下す罰を語ることで、神から逃げてしまったのです。神の御前での罪が重要なのではなく、人の前での罪が重要になり、いくら罪を犯しても法にさえ、ふれなければかまわないと考えました。神の御前での罪と良心の問題をここから取り除き、縮小させてしまったのです。 世の法やどんなさばきによっても、殺人や罪がなくなることは決してありません。韓国では罪になることがアメリカでは罪にならず、アメリカで罪になることが韓国では罪にならないことがあります。このように、国の法によって罪の基準もそれぞれ違ってくるのです。 では、殺人に関するイエスの解釈はどのようなものでしょうか。イエスのみことばの本来の意味は、殺人という外に現れる行為ではなく、その内面の動機にあるということです。私たちはみな、見つかっていない罪人です。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行いの結ぶ実によって報いる」(エレ 17:9~10)。神は人の心と思いを探られます。神は、殺人行為そのものよりも、殺人の動機を重要視されます。私たちが人を殺さなかったとしても、誰かを殺したいほど憎む者はみな、人殺しであると聖書は言っています(Ⅰヨハ 3:15)。 兄弟を憎むことが殺人であると言うイエスのみことばを聞いていたパリサイ人と律法学者たちは、心が落ち着かなかったはずです。なぜならば、自分たちこそが律法を最もよく守っていて、神に最もよく仕えていると考え、安心しながら生きていたのに、「あなたは殺人者だ」と言われたからです。 しかし、これは当時の人々だけでなく、今日を生きる私たちにも厳しいことばです。なぜなら、私たちも実際には人を殺していませんが、殺したいほど憎んでいる人がいるかもしれないからです。イエスは、心の中では誰かを一生憎みながら生き、外見は敬虔なふりをしている人々に、殺人者だと言われるのです。兄弟姉妹を憎んだことはありませんか。殺人の罪を犯していないか振り返ってみましょう。
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