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聖徒の敬虔訓練⑬
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ひとりでいることと 敬虔訓練 |
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ホン・インジョン ● 長老会神学大学 実践神学教授
「ひとり」ということばは、「さびしさ」「孤独」を連想させます。人々はひとりで生きている人を見ると、「さびしく見える」と言い、気の毒がります。ですから、「人が、ひとりでいるのは良くない」(創 2:18)というみことばを用いて、結婚しない人を気の毒がったりします。しかし男性がその妻と一体になるために、父母を離れなければならない(創 2:24)ように、本当の意味で一体になることは、まず「ひとりになること」「離れること」を前提としています。ですから、敬虔は「ひとりになること」「ひとりでいる」ことを必要としています。 ひとりでいることは、訓練なしに、ひとりでにできることではありません。なぜなら、ひとりでいることの霊性は簡単に学べることではなく、人格の成熟と関連があるためです。ある人はひとりでいるさびしさを避けるため、多くの代価を支払います。時として麻薬、ギャンブル、スポーツ、各種の集まり、インターネットなどに過度に没頭(中毒状態)し、ひとりでいることを避けようとします。しかし、これは病的な現象です。健全な「ひとりでいること」と、健全ではない「ひとりでいること」を分別しなければなりません。では、「ひとりでいること」は、敬虔訓練とどのような関係があるのでしょうか。また、「ひとりでいること」の訓練のために、何が必要でしょうか。
ひとりでおられる三位一体の神 父なる神 モーセがホレブ山で神の召しを受けたとき、モーセが「私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は何と答えたらよいのでしょうか」と神に聞くと、神は…「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』」(出 3:13~14)と答えられました。神は完全なる方であり、十分に満たすことのできる方です。その神がイスラエルの民をひとりでエジプトから導き出されたのであって、ほかの神々がともにいたわけではありません(申 32:12)。神は自ら存在され、唯一の神であられ(Ⅰテモ 1:17)、ただおひとりで救いを成し遂げられ、不思議なみわざをなされました。「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主」(Ⅰテモ 6:16)であられ、私たちの隠れた心のすべてをご存知の方です。すべてのことをひとりで成し遂げられる父なる神です。 子なるイエス 本来、イエスは神とともにおられましたが、父を離れ、ひとりとなられました。ですから、「わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます」(ヨハ 16:28)と言われたのです。私たちを救ってくださるために、喜んで父なる神を離れて、ひとりになられたのです。 それだけでなく、イエスは食事をする間もないほどの忙しい公生涯で、たびたびひとりになる時間を持たれました。朝早く起きて寂しいところに行き、祈られました(マコ 1:35)。五つのパンと二匹の魚の奇蹟を見た人々が「世に来られるはずの預言者(メシヤ)だ」(ヨハ 6:9~15)と言って、イエスを無理やりに王にしようとしたときも、ひとりで山に行かれました。ヨハネはイエスについて「ただひとり、また山に退かれた」(ヨハ 6:15)と記し、ルカは「いつものようにオリーブ山に行かれ」(ルカ 22:39)と記しています。イエスはいつも決まった場所で定期的に祈る時間を持っておられました。 子なるイエスは人間を救うために父なる神を離れて、この世にひとりで来られました。イエスはひとりでいる訓練を通して神とともにいることを楽しまれ、神の救いのご計画を成就されました。 聖霊なる神 イエスは子なるイエスが私たちから離れて行かれるとき、助け主である聖霊が遣わされると語りました(ヨハ 14:26)。子なる神のように、聖霊なる神も、父なる神を離れてこの地に来られました。私たちとともにいるために、ひとりになられたのです。 聖霊なる神は、イエスを導いて、試みを受けるために荒野に連れて行きました(マタ 4:1)。また、聖霊はヨハネを荒野に連れて行き、高い山に導いて、神がなさることをあらかじめ見せられました(黙 17:3、21:10)。聖霊は、私たちをひとりで神の御前に立つように導き、祈らせ、隠された不思議なことを見せるために、ひとりで働かれます。
聖書の中に出てくる「ひとりでいること」 神の人々を見ると、神の御前にひとりで立ってはじめて、内面からの神の細い御声を聞きます。ヤコブは双子の兄であるエサウに会うために、悩んだあげく家族を先に送り、ヤボクの渡しでひとりで残り、そこで御使いと格闘し、神の答えを聞き、「イスラエル」となります(創 32:24)。 モーセは、エジプトの王子であったときに、王宮で神と深く交わりを持っていたのではなく、殺人者として追われ、ミデヤンの荒野に行き、舅の羊を飼う羊飼いとなり、ひとりホレブ山で神の御声を聞きます。 ダニエルはひとりで、大きな幻を見たり神の御声を聞いたりしました。「この幻は、私、ダニエルひとりだけが見て、私といっしょにいた人々は、その幻を見なかったが、彼らは震え上がって逃げ隠れた」(ダニ 10:7)。 パウロも異邦人の使徒として召されたとき、人には相談せず、ほかの使徒とともにいることもせずに、ただアラビヤに行ったと告白しています(ガラ 1:16~18)。 このように、聖書の人物が「ひとりでいた」というのは、ただ孤独をひとりで楽しもうというものではありませんでした。イエスがひとりでおられたのも、ただひとりで過ごした時を意味しているのではありません。イエスは捕らえられる前、弟子たちに言われました。「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」(ヨハ 16:32)。「ひとりでいること」とは、神と親密な交わりを持つために、世の騒がしさから断絶することを意味しています。不健全な「ひとりでいること」は、人を憂うつにさせます。また、関係の断絶に代わるものに依存する中毒的な孤独になることです。このような状態は、願おうと願うまいと、のけ者、いじめ、ひきこもりとして深刻化していく可能性が高いものです。
日常における「ひとりでいること」の訓練 では、健全な「ひとりでいること」を通して神と親密な関係を発展させて、神を慕い求める深い霊性を身につけるためには、どのような訓練が必要なのでしょうか。 第一に、みことばの前にひとり座わり、黙想の時間を持たなければなりません。ともにみことばを分かち合い、礼拝し、賛美をすることも必要ですが、ひとりでみことばを読み、賛美し、神の御前で礼拝者として立つことも重要です。何よりも、神のみことばを通して自分に語られている神の御声を聞こうと渇望しなければなりません。 第二に、神の御前でひとりでいる祈りの時間を持たなければなりません。声を合わせて祈る祈り、集まってささげる祈りも必要ですが、イエスのようにひとりで祈ることも必要です。これはどれだけ長く祈るかよりも、どれだけ深みのある祈りができるかが重要です。ナタナエルが、ピリポの勧めでイエスに会うと、イエスは「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」(ヨハ 1:47)と言われました。ナタナエルが、なぜ自分を知っているかと聞くと、イエスは「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」(ヨハ 1:48)と答えられました。それは、ナタナエルにひとりで祈る場所があったことを意味しています。ナタナエルの霊性の深さは、いちじくの木の下でひとりでいることによって花開いたのです。 第三に、日常の騒がしさから抜け出せる静かな場所と時間を確保しなければなりません。現代人には携帯電話、インターネット、テレビから自由になれる場所が必要です。サタンは人間を奔走させ、生活の優先順位を混乱させることによって神との距離を遠ざけます。敬虔訓練は神に似ていく訓練であり、神に近づき、世から遠ざかる訓練です。ですから、自分にあった方法を持たなければなりません。「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた」(ダニ 6:10)。 日常生活の中でひとりでいる時間を確保するために、手帳に1日30分、1週間に1~2時間を、重要なアポイントとあらかじめ書いておくことをお勧めします。仮に、短い時間であっても静かに黙想し、「聖なる読書」ができる、ゆとりのあるひとりの時間を持ってください。また、月に1日、年に4~5日を神の観点から自分を見つめることができるように時間を取り分けてください。 「ひとりでいること」は、カタツムリが殻の中に入るように、洞くつの中に隠れたり、「ひとりにしておいて」という逃避の生活とは違います。それは、人や世の騒音から逃れて、沈黙する生活であり、神の御前で心と考えを静め、神の御声を聞く霊的訓練であり、祈りの生活です。イエスがそのようになさったので、私たちはさらに「ひとりでいること」を追い求めなければならないのです。
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