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マタイの福音書の恵み ⑧
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キリストと律法Ⅱ② |
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オンヌリ教会 主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
イエスは、律法の核心が義であることを教えられました。そして「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」(マタ 5:20)と言われ、私たちに律法に対する献身と情熱を求められました。しかし、イエスが求める義はパリサイ人や律法学者のような義ではありませんでした。彼らの義は間違ったものだったからです。
間違った義 - 形式的で外面的な義 では、パリサイ人と律法学者が追い求めた間違った義とはどのようなものだったのでしょうか。 第一に、彼らの義は内面的なものではなく、形式的で外面的なものでした。マタイの福音書23章25節で、イエスは「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです」と言われました。彼らは礼儀正しく装い、罪を犯さなければよいと考えていました。また、モーセの座に座り、口だけで行動の伴わない者たちでした。 今日も、パリサイ人や律法学者たちのようにうわべだけのクリスチャンが多くいます。外見は、聖日には教会によく出席し、熱心に献金をし、奉仕も熱心にします。残念ながら、その中を見ると汚れています。 皆さんはどのような人でしょうか。人の中にいると、本当の自分の姿を知ることはできません。メッセージをしている私は、私ではありません。聖書を教えるときの皆さんは、皆さんではありません。誰もおらず、独りでいるときの姿が皆さん自身なのです。独りでいるとき、皆さんが賛美し、祈り、神を恐れているなら皆さんは本物です。しかし、皆さんが情欲に燃え、悪いことを考え、さまざまな卑しいことを考えているなら、それが皆さんの本当の姿であることを知ってください。 皆さんの中には何があり、また皆さんは何を考えていますか。何のために心配し、何のために苦しんでいますか。それが皆さんの本当の姿です。形式的で外見的なクリスチャンは、決して天の御国に入ることはできないでしょう。
間違った義 - 部分的な義 第二に、パリサイ人や律法学者の義は部分的な義でした。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません」(マタ 23:23)。 一部の問題をもって、それがまるで全体であるかのように興奮して話す人がいます。帝政ロシアが滅びるとき、聖職者たちは針の先に天使がどれほど座ることができるかについて深刻に討論していました。また、そのような危機の時に、彼らは洗礼を与えるとき指を3本ひろげるか、2本ひろげるかという問題に時間を無駄に費やしました。また、聖職者は何色のガウンを着るべきかについて討論していました。 今日も多くの教会や教会員たちが本質的な問題ではなく、些細でつまらない問題に力を浪費しているのを見ます。献金の問題、建物の問題、制度の問題、教派の問題などがそうです。主は「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタ 6:33)と言われました。教派がすばらしいものだとしても、それは主にまさるものではありません。どんなにすばらしい制度でも、聖書には及びません。イエスが望んでおられるのは、互いに争い、批判し、悪口を言うことではなく、愛し、赦し、伝道し、栄光をささげることです。主の関心があるところに私たちの関心があるべきであり、主の関心がないところには私たちの関心があってはなりません。そのようになるとき、教会は平安で満たされ、主の御心がなされるのです。部分的なものにしがみつくなら、私たちは決して天の御国に入ることはできないでしょう。
間違った義 - 解釈された義 第三に、パリサイ人や律法学者の義は律法の本来の意味の義ではなく、解釈された義でした。これは、近年の自由主義神学者や混合主義者が犯す過ちです。マタイの福音書5章21節からイエスは「昔の人々に…言われたのを」ということばで始め、6つの実例をあげながら、そのことを説明されました。パリサイ人や律法学者は聖書そのものよりも、律法の解釈それ自体を強調し、引用していたのです。このように律法を解釈したものを、彼らは神のみことばと信じたのです。ここに危険要素があります。聖書は拡大したり、縮小してはならず、本来の意味そのままを信じなくてはなりません。聖書を私たちの必要に応じて再解釈したり、合理化してしまうなら、私たちは決して天の御国に入ることはできないのです。
間違った義 - 利己的な義 第四に、パリサイ人や律法学者の義は、神の義に基づいたものでなく、利己的なものでした。 つまり、外見は神に栄光をささげるように見えますが、実際その内面は自分の栄光を求める利己的な点に、律法の虚構性がありました。彼らは献金するときに音が長く聞こえるように入れ、祈るときは奥まった部屋ではなく街角や十字路、大通りなどの人通りの多い場所で、きよい表情ときよい姿勢を作りながら祈りました。また、断食は3回せよというみことばがないのに、そのような決まりを作って得意げに断食を行いました。これらは、決して天の御国に入れるような義ではありません。
では、皆さんの義は これまで、多くの働きをしたり、律法主義的に完璧に生きることは義ではないことを学びました。これらのことを超えて、神に喜ばれ、受け入れられる義とならなくてはなりません。神は、外的な義よりも内的な義を、部分的な義よりも全体的な義を、再解釈された義よりも本来の意味に基づいた義を、利己的な義よりも神の栄光のための義を重要視されます。イエスが、あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら天の御国に入ることができないと言われたのは、このような意味なのです。 皆さんの義は、イエス・キリストの血潮によってあわれみを受けた義、すなわち無償で受けた義ですか。あるいは、行いによって得た義ですか。主は天の御国に入ることができるのは、神のあわれみによって義とされた者だけであると言われました。 「イエス様、私たちの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら決して天の御国に入れないと教えてくださったことを感謝します。また、律法において最も小さい者であっても、それを守り、ほかの人に教える者には天の御国で偉大な者と呼ばれると言われました。どうぞ私たちが、みことばを聞くだけの者ではなく、守り、教える者となれるように助けてください。また、律法に記されている小さい者をも大切にする者となれるように祝福してください」と祈りましょう。 皆さんにイエスによってもたらされたまことの恵みと義がありますように、そして、神が喜ばれる義の人として生きられますように願います。
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