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マタイの福音書の恵み ⑦
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キリストと律法Ⅱ① |
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オンヌリ教会 主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
前回、私たちはキリストと律法の関係について見ました。では、イエスを信じている私たちと律法はどのような関係にあるのでしょうか。
大きい戒めと小さい戒め 「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます」(マタ 5:19)。 多くの人は、自分が神の基準に達するように努力するよりは、神を自分の基準に合うように引き下げようとします。聖書のみことばもそのまま信じるのが難しいと、自分の頭で理解できるようにある部分は取り除き、ある部分は再解釈し、ある部分は合理化してしまいます。また、世の風潮にならって、神を自分の基準で引き下げてしまいます。これが堕落です。 律法の最も小さい部分であっても、それは完全であり永遠であるため、絶対に妥協したり軽く見てはなりません。聖書を読んでいると、聖書が示すクリスチャンとしての生活の基準が、私たち罪人が従うにはあまりにも難しいと感じることが多くあります。それはまるで人が水の上を歩くことのように難しく、私たちの力では不可能です。ですから、私たちは自分の力ではなく、イエスの助けによって信仰生活をするときにだけ、その基準に達することができるのです。これがまさに、行いによって救いを受けることができないというみことばの意味です。 イエスは、律法の戒めのうち、最も小さいものの一つでも捨てたり、おろそかにする者は、天の御国でもおろそかにされると言われました。「最も小さいもの」とは、律法で見過ごしやすい小さいものという意味もありますが、マタイの福音書22章37~40節で、また違う意味を見出すことができます。 「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」(マタ 22:37~40)。 神に対する戒めは大きいものであり第一の戒めです。そして、第二の戒めは人間に対する戒めです。しかし、大きい第一の戒めも、最も小さい戒め、つまり第二の戒めもすべて律法なのです。
パリサイ人と律法学者たちの問題 では、パリサイ人や律法学者たちの問題は何だったのでしょうか。彼らは、神については誰よりも熱心であり、徹底していました。彼らは、旧約の律法を、従わなくてはならない戒め248、してはならない戒め365、あわせて613の戒めを作り、守ろうと努力しました。しかし、彼らは人間に対して守らなくてはならない戒めを軽んじていました。つまり、隣人の生活や人権には無関心だったのです。たとえば、イエスが安息日に病気をいやされたことや、ある人を困難から救われたときの彼らの関心は安息日を犯したことにあり、そのためにイエスを罪に定めました。今日も、神のことには非常に熱心ですが、人のことには無関心で軽んじている人々がいます。イエスは神をまことに愛し、礼拝しましたが、同時に罪人や遊女、病人の友でもありました。イエスは、第二の戒めも誠実に守られたのです。イエスは神のことを言い訳にして人を愛せよという律法をおろそかにする者は天国で最も小さい者と呼ばれると言われました。
守り教えなさい 「守り教えなさい」ということばも、しっかり考えなければなりません。私たちは律法であるみことばを聞くだけで終わってはなりません。ただメッセージを聞いて恵みを受けるだけで終わってしまうなら、天の御国で最も小さい者になってしまいます。神が目を留めて祝福する人は、聞くだけの者ではなく、聞いてそれを行い、ほかの人にも教える者です。教会に来てメッセージを聞くだけで満足しないでください。イエスは山上の説教を、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。・・・わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」(マタ 7:24~26)と結ばれました。みことばを聞く人は多いのですが、その真理に気づき、行動に移し、それを教えることのできる人はそれほど多くありません。19節では、律法の最も小さい者であっても、それを守り、またほかの人に教える人が天の御国で偉大な者と呼ばれると言っておられます。 人が多いことが重要なのではなく、どのような人がいるかが重要です。長生きすることではなく、どのように生きるかが大切です。1年を10年のように生きる人もいれば、10年を1年のように生きる人もいます。みことばと福音の前にどのように生きているかが大切です。もし、皆さんがみことばを守って生きてきたのなら、今、世を離れるとしても、天の御国で偉大な者となります。私たちは福音を聞くだけでなく守る者になり、また喜び楽しんで語り、教えずにはいられない人になるべきです。このように、私たちがみことば通り生きようと努力し、それを教えるとき、私たちは成熟した信仰者として脱皮するのです。
義の基準 二つめに、クリスチャンは律法とみことばに対してどのような態度を取るべきなのかが20節に記されています。 「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」 非常に恐ろしいみことばです。神が与えられた律法の求めていることを一言で言うと、神の義です。この義はクリスチャンの人生の本質でもあり、17~19節で追い求めてきた結論でもあります。 あの人は真実なクリスチャンだと思う人がいますか。その人は大きな働きをしたわけでも、偉大な弁論家でもないかもしれません。しかし正直できよく、純潔に生きている人の前では、ひとりでに頭が下がるものです。神が私たちに要求されるのは義です。ですから、この義に基づいていない行いは意味がないのです。 イエスは、律法の核心は義であると言われ、天の御国に入ることができる義の基準を19節で教えておられます。パリサイ人や律法学者は、律法通りに生きるために生まれた人々のように、厳格で完璧に生きる人々です。イエスは、パリサイ人と律法学者が律法を守ろうとする熱心と同じくらい、私たちに律法に対する献身と情熱を求められました。しかし問題は、どのように私たちが彼らの水準に達することができるかということです。 しかし、イエスが言われるパリサイ人と律法学者の義は、イエスが要求される義と同じではないということに注意してください。繰り返しますが、律法学者とパリサイ人の義は外面的には完璧で、行いとしては私たちには真似できないものですが、それは神が望まれる義ではありませんでした。ですから、このみことばは、パリサイ人と律法学者が失敗したそのような義によっては天の御国に入ることはできないという意味なのです。これらのことによって、私たちは安心して希望を持つことができるのです。
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