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聖徒の敬虔訓練⑩
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赦しと敬虔訓練 |
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ホン・インジョン ● 長老会神学大学 実践神学教授
赦しは、一般のカウンセリングにおいても重要な概念ですが、キリスト教信仰では核心的な概念です。しかし、赦しは簡単ではありません。なぜなら「赦しなさい」とすべきことを説明することと、「赦しの生活」の実践とは、全く違う次元の問題だからです。チャールズ・スタンリーは、「あなたに過ちを犯した人を、あなたに対しての義務や負担から自由にする行為」と赦しを定義しています。また、ラリー・クラブは、「私に借金をしたり、私の気持ちを害した人に対して見返りを要求しないこと」と説明しています。これは、被害者が加害者に返済を求めない行為に焦点を合わせています。これに対して、バルスウィックは、「双方間の過程」であり、「家族間の赦し合いは双方の未解決の問題を明確にし、新しい変化をもたらす最も重要な部分である」と強調しています。 このように、赦しの概念は、加害者、被害者、双方の関係と密接なつながりがあり、どこに焦点を合わせるかによってその定義も適用方法も変わってきます。これに対し、デイビッド・A・シーモンズは、「私が赦す主体になって能動態として話す場合、それは私に過ちを犯した誰かを赦すという意味である。そして、私が赦される客体となり受動態として語る場合、それは私の過ちに対して神とほかの人に赦されるという意味である。そして、赦す主体でもあり、赦される客体でもあるという再帰形態で語ると、それは自分が過ちを犯した場合は自分を赦すという意味である。このように聖書にはさまざまな意味の赦しが相互間に密接な関係を持って表れている」と力説しています。
赦しの三位一体の神 クリスチャンが「赦し」をはっきりと理解するなら、赦しの主体である神について知らなければなりません。 赦しのはじめである父なる神:神は罪人に悔い改めて立ち返るなら赦すと言われます。「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(イザ 55:7)。すなわち、赦しをはじめられた神です。放蕩息子のたとえでは、息子の帰りを待ち、赦し、受け止めた父はまさに神の象徴です(ルカ 15:11~32)。罪を犯したアダムに「あなたはどこにいるのか」(創 3:9)と呼ばれる神は赦しの神です。なぜなら、赦しとはまず先に近づくことだからです。 赦しを成就された御子なる神:イエスは十字架で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ 23:34)と祈られました。イエスは十字架を負い、赦しを成就した「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ 1:29)である御子なる神です。父なる神は御子なる神であるイエスにあって私たちを赦されました。それで聖書は「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペ 4:32)と言っています。 赦しの生活を可能にしてくださる聖霊なる神:聖霊は、神の民が赦しの人生を歩むことを望まれ、赦すことを可能にしてくださいます。無慈悲、憤りなどは聖霊を悲しませることであり、互いにあわれみ、赦すことは聖霊を喜ばせることです(エペ 4:30~32)。ペテロは「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってパプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」(使 2:38)と言いました。赦しは、聖霊を賜物として受け取る前提条件であり、聖霊の賜物を受け取った証しです。すなわち、聖霊なる神は赦しを喜ばれ、赦しの人生を生きることができるように導いてくださいます。 日常で赦しを実践する 赦しを実践して生きるのは簡単ではありません。赦しの人ヨセフから赦しの実践を学ぶことができます。全家族がエジプトに移住し、父ヤコブが死ぬと、兄たちはヨセフを恐れるあまり父の遺言ということにして自分たちのそむきと罪を赦してくれるように頼みます。ヨセフは兄たちを慰めます。「恐れることはありません。どうして私が神の代わりでしょうか。・・・それはきょうのようにして多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう」(創 50:19~21)。ヨセフの生き方から学べる赦しの原理があります。
命令としての赦し 社会での赦しの基準は「自分のため」が優先されます。しかし、クリスチャンにとっての赦しとは、神が「イエス・キリストのうちで私たちを赦してくださったように赦す」ことです(エペ 4:32、コロ 3:13)。赦しは神の命令への謙遜な服従であり、神が私たちを赦してくださったことへの感謝でなければなりません。イエスは、借金を帳消しにしてもらったしもべにたとえて、「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」(マタ 18:32~33)と言われました。私たちはあわれみを受けた者として赦さなければならないのです。ですから、赦しの黄金律は「ほかの人があなたにしてほしいと願うように行うのではなく、神がキリストのうちにあってあなたにしてくださったことを、そのままほかの人に行うことである」(デイビッド・A・シーモンズ)。 赦しは自然なことではないため、意志によって選び取らなければなりません。赦しは、被害者の立場から、加害者に復讐する権利を放棄する選択から始まります。ですから、ヨセフは自分は神の代わりではないと言ったのです。「赦しなさい」という命令に従うかどうかは、神の命令に従うか従わないかの選択です。赦しを選ぶということは、復讐する権利が自分にないことを認めることです。ヨセフは、兄たちに再会する前からすでに赦していました。なぜなら、長男が生まれたとき、マナセ、すなわち「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」(創 41:51)と名づけたからです。
赦しの過程、少しずつ赦す 赦しを選び取ったとしても、一瞬で赦しが完成されるのではありません。罪を告白してイエスを救い主として迎え入れることで義とされますが、義人ではないのと同じです。すなわち、聖化が神の人格に似せられる一生の過程であるように、赦しも少しずつ完成されていく段階と過程を踏まなければならないのです。ヨセフは、兄たちに再会したとき、彼らを数回試し、赦しの階段を上りました。ロバート・D・エンライトは、赦しは選択であることと、四つの段階を踏まなければならないことを話しています。 怒りを発見する一つめの段階(苦痛に正直になる)、赦しを決心する二つめの段階(過去に背を向ける、未来を見つめる)、赦しのための作業を始めていく三つめの段階(具体的な行動を取る)、感情的牢獄(怒り、悲痛、復讐心)から解放される四つめの段階を経ていきます。 赦しの専門家はいません。しかし、赦しは過程であり技術なので、適切な指針にしたがえば赦しの祝福を受けることができます。赦しの人生を歩み、失敗しても、次のことを覚えてもう一度始めてください。フラー神学校教授であったルイス・スミシーズの励ましです。「きょう赦し、明日は憎み、次の日には再び赦したとしても、あなたは赦す人なのです。私たちは赦しの専門家ではありませんから、時々どうしようもないようなことをしでかします。赦しのゲームでは、誰も専門家になることはできません。私たちは皆スタートラインに立っている人間だからです。」
積極的に善を行い、与える 赦しの姿勢の中心は、兄弟を赦すことです(マタ 18:35)。私たちが赦すとき、神の赦しが有効になります。聖書では「赦しなさい。そうすれば自分も赦されます」(ルカ 6:37)と語ります。赦しの人ヨセフは、兄たちのそむきと罪を赦すだけでなく、顧み、慰め、積極的に善を行い、与えました。赦しは、当然受け取るべき借金の返済を拒むことです。イエスは「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」という祈りを教えられました。受け取るべきものを受け取らないことが赦しのスタートなら、善を行うことは積極的な赦しであると言えます。これは「私を傷つけたのに謝らない者を赦すこと」と同じように、非常に難しいことですが、善を積極的に行い、人に与えることで赦しの人生を歩むことができます。
自分を赦す 私たちも赦されなければならない存在です。私たちが神の代わりになれないということは、私たちも神の赦しを必要としている存在であることを前提としています。さらには、ほかの人に悪を行い、傷つける私たちも赦される対象であるために、人を赦さなければなりません。放蕩息子は、空腹と窮乏のなかで過去の間違った選択と罪を悔い、自責の念にとどまらずに父の豊かさとあわれみを思い出しました。そして、父に赦しを請いました。過去の痛みを伴う記憶のために失望させられることもありますが、神のいつくしみとあわれみは尽きることがないので、滅ぼされることはないと告白し、希望を持って自分自身を赦さなければなりません(哀 3:19~21)。 クリスチャンは赦しの力を開発し、維持しなければなりません。そうしないなら、否定的な感情の残骸が、苦痛と傷の中と過去の痛みを伴う経験の中に残ってしまいます。赦さないで生きることは不幸です。また赦されない人生は、苦痛に尽きます。私たちは日常で赦しを始め、赦しを経験しなければなりません。
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