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マタイの福音書の恵み ①
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地の塩、世の光 ① |
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オンヌリ教会主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」(マタ5:13~14)。 クリスチャンはこの世でどのように生きるべきなのでしょうか。マタイの福音書5章13~16節のみことばはその方法について語っています。「あなたがたは地の塩であり、世界の光です」というのが、このみことばの核となります。ここから三つの重要な内容を見ることができます。
クリスチャンとはこの世の中で生きる人 一つめに、クリスチャンはこの世と離れて生きる、孤立した人ではなく、むしろ罪深く問題の多いこの世の中に積極的に飛び込み、関係を持ちながら生きる人です。 イエスは13節で「あなたがたは、地の塩です」、14節では「あなたがたは、世界の光です」と言われました。これはクリスチャンが今現在住んでいる場所が夢のような理想的な世界ではなく、目の前にある現実であるということを示しています。これはまるで海の中に魚が住んでいるのと同じです。魚の住みかは陸地ではなく海の中です。魚は海を離れては存在する理由がありません。しかし驚くべきことは、魚は塩からい海の水の中に住んでいるにもかかわらず、魚は塩からくならないということです。 また、水の上に浮かぶ船にもたとえることができます。船は陸地では存在する理由がありません。船が存在するべき場所は海です。しかし、さらに驚くべきことは、海の水は船の中には入ってこないということです。クリスチャンが住む場所は「この世の中」です。つまり、塩と光のようにこの世の中で責任のある存在として生きていかなければならないということです。
「クリスチャンとは何者か」と繰り返し問う人 二つめに、クリスチャンはいつも「私は何者だろうか」と考える人です。クリスチャンの存在様式は、行動にではなく変えられた姿にあります。「地の塩、世界の光」とは、何をどのようにするかではなく、まず自分自身がどのように塩となり、光となるかという問題なのです。 これまでの私たちの人生を振り返ってみると、私たちは倫理的な行動要綱という律法の中で自分自身のステータスを探して生きてきました。つまり、このような律法的役割を果たせば、信仰の責任も果たしていると考えてきました。しかし、このような高度な倫理的キリスト教は、自分自身も世も変えることはできません。むしろ、内面は腐っているということを目の当たりにするだけです。私たちが塩となり光となってどのように生きて来たかではなく、私たち自身が塩と光に変えられているかに目を留めなければなりません。 しかし、このみことばはクリスチャンが何の行動もしないということを意味するのではありません。むしろ、クリスチャンの真の姿からまことの行いが出てくるという意味なのです。また、これはクリスチャンは福音の中からまことの行いが出てくるということなのです。これはクリスチャンは福音の中で行動する人であり、福音なしで行動だけをする者ではないという意味でもあります。
クリスチャンとは世の人々と本質的に違う人 三つめに、クリスチャンはこの世の人々とは本質的に違う人であるという意味があります。これは水と油のようなものです。水と油は見た目は同じ液体です。しかし、この二つは決して混ざることのない、質的な差があります。クリスチャンとは、世の中に生きていても、世の人ではなく、この世と同化することもできない、本質的に「違う存在」なのです。ちょうど、水と油をどんなに混ぜようとしても、同化したり一つにならないのと同じです。 キリスト教が歴史の一時代を支配し、キリスト教的文化を形成したこともありました。例えば、クリスマスやイースターなどです。しかし、問題は、このような祭りは人々に信仰がなくても楽しむことができるということです。彼らはキリスト教的思考やキリスト教的文化の衣をまとって現れます。だからといって、彼らがまことのキリスト者であるのかと問うならば、どれだけ似てはいても結局は水と油であると答えるしかありません。クリスチャンとは、最後までこの世で天国の市民として存在し、光として塩として存在する者たちであるという意味が、地の塩、世界の光というみことばの中には含まれているのです。 イエスはクリスチャンを指して、「地の塩」(13節)と「光」(14節)と言われましたが、その意味についてさらに具体的に見ていきましょう。 まず、塩に関して考えてみましょう。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです」(13節)。 イエスは、八つのまことの品性を持つ人を指し、最初に「地の塩」と言われました。つまり、心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者が、塩のような役割をする人であると言われたのです。ここで注意すべきことは、単に私たちが「私たちは塩だ」「私たちは光だ」と声高く叫んだからと言って、私たちが光や塩になるわけではありません。光と塩の秘訣はクリスチャンの内面的な品性にかかっています。つまり、この八つの品性を持つ人だけが、じっとしているだけでも、周囲にいる人たちはその人を見て「あの人の中に光が輝いている」「あの人の中に塩のような働きが起きている」と感じるのです。では、世の中で塩のような役割をするとは、どのような意味なのでしょうか。
塩の役割、防腐剤 クリスチャンは、この世から背を向ける人ではなく、この世に積極的に参加し、この世が腐敗しないようにする人であり、この世の人々が方向感覚を失ったときに、方向を示すことのできる具体的な役割をする人です。救いを受けた神の民が、この世が腐敗していくのを防ぐ防腐剤の役割をするのです。 今日の教会は、教会の本質をすっかり忘れてしまい、福音のない社会参加だけを主張している人たちによって蝕まれています。また逆に、福音には熱心であっても、この世がどのようになっても関係ないというように、教会が必ずしなければならないことをおろそかにすることで、教会を変質させている人もいます。教会は罪深い世であってもこの世を見捨ててはなりません。関心を持たなくてはなりません。つまり、罪によって腐敗していくこの世の中で、塩のように防腐剤の役割をしなくてはならないのです。
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