友となるということ
日本ホーリネス教団 東京中央教会 主任牧師 ● 錦織寛
「わたしはあなたがたを友と呼びます」(ヨハ 15:15)。 私は中学二年生の時に、いじめられていた。クリスチャン・ホームで育った私は自分自身曲がったことが出来なかった。親や学校の先生の言うことに背くなどとんでもないことだった。真面目というよりもむしろ、そんな悪いことをしたら地獄に行くことになってしまうという神の裁きへの恐れの方が強かったかもしれない。自分に対して厳しいだけでなく、人が曲がったことをしていたら放って置くことができなかった。そうしないと、自分の責任を果たしていないことになる。それは正義感という以上に、義務感だった。そんな私は、決して曲がったことはしなかったが、ある意味、クラスのボスからは嫌われた。みんなが、そのボスには何も言わないで子分のようになっていても、自分は言うことを聞かない。 毎日いじめが待っている中で、学校に行くのは結構なストレスだった。ただ、こちらは正義感と義務感とで生きている。毎日、大きく拳を振り、勇ましい賛美歌を歌いながら学校に通った。いや、実のところはそんな勇ましいものではない。すごまれてしまうと、くやしいけれど、目から涙が出てくる。親や先生には何も言わなかったけれど、私は、ある意味、悲壮な覚悟を決めた殉教者気取りだったかもしれない。 ある日、私の教会で伝道集会があった。私は、勇気を出して、私をいじめていたボスをその集会に誘った。彼は、行くといってくれた。中学二年生の、ほとんど勉強はしない、腕力とにらみで教室を支配していた彼は、神妙な面持ちで、夜の伝道集会に来てくれた。私は母にお願いして、夕食を食べていなかった彼のために、食事を用意してもらい、彼は食事をしてから、夜の集会に出席した。金曜・土曜と夜の集会があって、日曜の朝、また教会にやってきた彼は、朝の集会の前に私を呼び出して言った。「錦織、俺も今までいろいろ悪いことしてきたけど、俺もイエス様を信じたい」。講師の先生にお願いして、彼のためにお祈りしていただいた。 私は思う。あの人は教会に来るはずがない。あの人が信仰をもつはずがないと、いつの間にか、祈りもおざなりになり、期待も信仰もなく、その人がイエス様のところに来るのを私たちは妨げていないだろうか。 彼が教会に来るようになったということはある意味、教会にも学校のクラスにも波紋を及ぼした。「あの子が教会に来るなら、私は行かない」と教会を離れる同級生たちもいた。ただ、ほどなくして、彼は教会から離れて行った。教会にも、彼を受け止めるだけの度量がなかったのだろう。けれどもそれ以上に、私が彼を教会から遠ざけてしまったのだ。イエスを信じる決断をしてからも、彼の生き方はそんなにすぐに変わらなかった。家庭的にもいろいろな問題を抱えていたのだと思う。私は、彼が学校で何か規則違反をすると、面と向かって彼に注意をした。あの悲壮感の伴う正義感と義務感だ。私が口うるさく彼の間違いを指摘する中で、彼は、また教会から離れていき、私はまたいじめのターゲットになった。 後で、中学校の先生の一人が私に耳打ちしてくれた。「錦織君が、あの子を教会に誘ってくれたんだってねえ。あの子が教会に行き始めたころ、『俺は本当の友達を得た』って錦織君のことを言っていたのよ」。 正直に言おう。私は彼の本当の友達にはなれなかった。若いころの正義感と義務感が悪いとは思わない。それは大切だし、失ってはならないだろう。ただ、私は、若さゆえにあまりにも律法主義的だった。長い目で一人の人を育てるとか、受け入れるとかいうことはできなかった。正直に言おう。その頃の私が彼を本当の意味で受け入れられなかっのは、実は私は、自分を受け入れられていなかったのだ。神に受け入れられているゆえに、自分をそのまま受け入れることができると、人をも、そのままで受け入れられるようになる。 日本の福音化とか教会のリバイバルとかというと、かなり大きな話になるが、それも私たちが一人の人の友になれるかどうかにかかっている。パリサイ人のように自分はお高くとまって、他者を見降ろしつつ裁く生き方ではなく、一人の人の友になれるかどうかだ。イエスは確かに、山上の説教や五千人の給食のような大衆伝道もなさったけれど、同時に、聖書に名前も記されていない一人の人の救いに心を砕き、その人の友となってくださった。そして、イエスと出会った人の人生は変わっていった。中学を卒業し、私たちは別々の進路に進んだ。今、彼がどうしているのか。全く分からない。連絡もない。でも、また帰ってきてほしい、心からそう思っている。
錦織寛(にしこおり・ひろし) 1961年、大阪で牧師家庭の長男として生まれた。 大学卒業後、東京聖書学院で学び、坂戸、東京新宿などで伝道牧会にあたる。現在、東京聖書学院教頭、日本ホーリネス教団東京中央教会牧師。
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