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日本キリスト教の足跡を追って ⑫
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日本プロテスタントの今日と将来 |
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日本プロテスタントの今日と将来 東京基督神学校校長 ● 山口陽一
1959年の日本キリスト教協議会(NCC)による宣教百年記念大会は盛り上がり、一方、宣教百年記念聖書信仰運動から福音派の協力が始まりました。そこに集った人々が見た夢と祈りは、50年後の今日、どうなったでしょうか。今回は、この半世紀のプロテスタントの歩みを振り返り、日本プロテスタントの将来を考えてみましょう。
1. 宣教百周年の積み残し 宣教百周年の折に扱えなかったことに戦時下の罪の問題がありました。教会は被害者でしたし、精一杯の抵抗を続けたという自負もありました。また、誰もが主の前に悔いることがあり、石を投げられる正しい人はいません。日本のプロテスタント教会における最初の戦争責任表明は1967年、日本基督教団議長鈴木正久名の「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」でした。戦後22年を経て、アジアを侵略した戦争への加担の罪を悔い改めた重要なものです。教会の罪責告白としては手続きと内容に不十分さがありましたが、ここから教会的な悔い改めに進む可能性はありました。それができなかったのは日米安保闘争の時代のイデオロギーに巻き込まれたからでもありますが、より本質的には日本基督教団の教会的脆弱さ、つまり無理な教会合同であったことによると考えます。日本基督教団では、1970年に万博のキリスト教館、東京神学大学への機動隊導入などをめぐって社会派と教会派の対立が続きました。資本主義の祭典である万博を利用して伝道することは戦責告白に反するとした問題提起者の一部は暴力をも用い、東京教区総会は1971年の中止の後1990年まで開催できませんでした。教団内のさまざまな立場を認める立場は、教会から伝道力を奪ってしまいました。こうした混乱の結果として伝道は振るわず教勢は停滞します。1955年から65年にかけて12.7万人から19.5万人に増加した日本基督教団の信徒数は、1975年も19.5万人のままでした。日本基督教団は、日本のプロテスタント教会の中心的存在であるがゆえに、1959年以降の宣教に大きなしこりを残すことになりました。
2. 福音派の躍進 一方、教団から独立した教派、あるいは戦後に開始された福音派の諸教会は、こうした問題に関わらずにひたすら伝道を続けます。1959年と61年にワールドビジョンによるクルセードが大阪と東京で行なわれ、東京クルセードは22.7万人の聴衆と9万人の求道決心者を得ました。さらに1964年には本田弘慈による東京福音クルセード、67年のビリー・グラハム国際大会が続きました。1968年の日本福音同盟(JEA)、1969年の『新改訳聖書』、1970年の福音主義神学会、1974年の第1回日本伝道会議、1976年の『新聖書注解』など、教派を超えた協力の成果を続々と生み出したのです。第1回日本伝道会議が開かれた1974年、スイスのローザンヌで開催された世界宣教国際会議の「ローザンヌ誓約」は、これ以後の福音派の指針となります。伝道だけでなく社会的責任を教会の使命として確認したことが宣教理解と実践の幅を広げました。福音派の諸教会においては青年たちが活発な働きをなし、高校生伝道のHi-BA、キリスト者学生会(KGK)やキャンパス・クルセードの学内伝道も活発になされました。福音派の各教派は、若くまた小さくあるがゆえによく協力しました。総動員伝道、訪問伝道、放送伝道、開拓伝道、神学校など、あらゆる面において超教派的な連携がなされ、また各教派や宣教団体が積極的に宣教師を送り出しました。日本伝道会議は、1982年「終末と宣教」(京都)、1991年「日本からアジア、そして世界へ」(那須塩原)、2000年「和解の福音」(沖縄)と続き、今年第5回が「危機の時代の宣教協力」をテーマに札幌で開催されました。 この間の発展は、まことにめざましいものでした。そして1986年には協力の幅をさらに広げるJEA再編がなされます。この時期、福音派は聖書信仰に立つ自らの立場を守り、確立することに必死でした。福音派には日本基督教団の混迷と衰えをやむなしと見るむきもありました。主流派から見ると熱狂的とも思えた福音派も、やがて教会的な成熟へと向かい、聖書を学び、祈り、社会を考える堅実な教会となります。 聖霊派(カリスマ派)は、かつてペンテコステ派と称されたように、初代教会のような聖霊の顕著な働きを強調します。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、日本ペンテコステ教団は戦前からの歴史を持ち、日本チャーチ・オブ・ゴッド教団もこの派の古株です。南米やアフリカにおいても盛んな活動があり、1990年以降「リバイバル運動」として伝道を展開し、1996年には初の全国組織として日本リバイバル同盟を設立する。そして1999年には、130ヶ国を超す国々から5日間に延べ1万人以上が参加した「世界宣教会議」が京都で開催されました。
3.「教会と国家」観の成熟 政治的活動には一線を画した福音派も偶像礼拝の問題には敏感であり、1970年代の靖国神社国営化法案反対運動に参加しました。信教の自由、政教分離をめぐる闘いは、やがて「教会と国家」をめぐる教会の自律の課題としてとらえられるようになります。日本キリスト改革派教会や日本長老教会など、改革派の神学は理論的に大きな助けであり、神社参拝の悔い改めに基づく韓国教会との交流、自派の受難を見つめ直すホーリネス教団の取り組みも貴重な貢献をしました。1990年、大嘗祭においては天皇の偶像性が再認識され、日本基督教会は朝鮮長老教会に対する神社参拝説得についての罪責を告白します。 戦後50年を迎えた1995年の前後には、福音派の団体から戦時下の罪責の告白がなされました。背景には、ワイツゼッカー西独大統領の演説「荒野の40年」から、戦後50年の村山首相談話に至る戦争責任表明の流れがありました。戦後の教会であるからできた悔い改めという面もあるでしょう。それでも半世紀をかけて日本の教会の根本的課題をとらえたこの時期の宣言は、次の世代に継承されるべきものとして貴重です。 4. グローバル化の中で 1990年の大嘗祭は、戦後の民主主義社会の転換点でした。天皇の神格化の儀式は、グローバル化する世界における日本の民族主義的回帰の象徴のように思われます。バブルが崩壊し、ポストモダンの風潮は宗教的なものへの関心を示しましたが、95年にオウム真理教事件があり宗教団体に対する警戒感も強まりました。戦争を知る世代が召され、韓流ブームで日韓の新しい関係が生まれる一方、グローバル化の中の国際貢献が唱えられ、自国中心的な歴史観が若者の間に受け入れられるようになり、憲法9条の危機が迫ってきています。海外で救いに導かれる人が増えるものの、彼らを受け入れる日本国内の教会にまだ備えが十分ありません。 こうした中、福音派の教勢は、1995年頃を境にそれまでの成長から停滞に転じています。より新しい教会が生まれ、成長点が移動したとも言えます。韓国からの宣教師は千名に達し、韓流教会やグローバルなメガチャーチなどが盛んになっています。 私が勤める東京キリスト教学園は、東京基督神学校と東京基督教大学から成り、福音派の諸教派から約二百名の学生が学んでいます。彼らはすべてキリストに献身した若者たちです。ここに集まる学生たちには、彼らを送り出す教会の状況が反映されます。そこからは、国際色豊かな教会、韓国教会、新しい単立教会などの姿が見えてきます。入信の証しや信仰の理解、倫理などにおいてはさほど変わりませんが、礼拝の様式、賛美などについては大きな変化があります。変わらない福音を携えて、どこまでこの時代に適応できるかが問われています。 ゼロから始まったプロテスタントの信徒は、今日61万5,918人、教会数は8,235を数えます。実に頼もしいことですが、もし数に頼るというのなら、キデオンの故事に照らして考えるに、これは多すぎるかもしれません。大事なのは、一人ひとりの覚悟です。主イエスのことばを、信仰をもって聴きましょう。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4章35節)
〈 「日本プロテスタント宣教150周年記念大会」2009年7月8~9日 〉
山口陽一 1958年群馬県に4代目のクリスチャンとして生まれる。金沢大学、東京基督神学校、立教大学に学ぶ。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会、日本基督教団吾妻教会牧師を経て、現在東京基督神学校校長、日本同盟基督教団市川福音キリスト教会牧師。
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