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愛の交響曲⑦
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愛の合奏曲 |
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愛の合奏曲
ハ・ヨンジョ ● オンヌリ教会主任牧師
今月号で、愛の交響曲シリーズは最終回となります。タイトルは「愛の合奏曲」ですが、愛はさまざまな楽器で演奏されるひとつの美しい合奏曲のようなものです。
三位一体の関係 「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(Ⅰコリ 13:13)。 愛の合奏曲で必要な楽器は3つです。信仰と希望と愛です。1つとして欠けてもよいものはありません。信仰、希望、愛は、父、子、聖霊がひとつであるように、三位一体の関係だからです。愛は父、信仰は子、希望は聖霊と関係があります。 「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。…愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」(Ⅰヨハ 4:7~8)。 愛と神は密接なつながりがあります。神は愛です。神から愛が出ているのです。 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい…」(ヘブ 12:2)。 信仰はイエス・キリストとつながっています。信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見上げれば、信仰が生じます。山をも動かすほどの信仰が、そして死んだ者がよみがえるほどの信仰が出てくるのです。 「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」(ロマ 15:13)。 希望に関する聖書個所を探してみると、すべて聖霊とつながっています。このように、信仰、希望、愛は、三位一体のように互いに協力し合い、励まし合い、影響を与えています。信仰、希望、愛の祝福を一つ一つ見ていきましょう。
不可能を可能にする信仰 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブ 11:1)。 信仰の祝福の1つ目は、信仰は不可能を可能にし、ないものをあるようにし、見えないものを見えるようにし、死んだ者を生かすことです。 信仰の世界は理性や合理的な世界とは違います。神を信じない者たちやこの世の人々の基準は、信仰ではなく合理性や常識、理性です。この世は合理的なものを中心に動いています。しかし、合理性や理性には奇蹟はありません。「五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせた」と聞くと、「そんなわけがない」と言います。合理的に、そして理性によってすべてのことを判断するからです。 皆さん、私たちは理性的で合理的な世界に住んでいますが、実際私たちが直面するものは理性や合理的なものを超えたことです。自分の子どもが不治の病を患ったとしたらどうでしょうか。理性でそれをとらえたとしても、解決することはできません。人生の危機、嵐、死、絶望に直面すれば、理性や合理性を探したりはしません。その瞬間、理性と合理性は消えてしまい、信仰の世界へと向かいます。 あまりにも多くの現代人が不安を抱え、眠ることができません。理性、合理性は問題を解決してくれません。合理性は薬を服用するようにすすめます。薬はある程度問題を解決してくれるように思われます。しかし、問題は残ります。私たちはすべていつか死にますが、死後の問題に対して誰が答えることができるでしょうか。理性で生きた人は理性にしがみついたまま死ぬことでしょう。そのため、理性ではなく信仰が必要なのです。
開かれた信仰の世界 信仰の2つ目の祝福は、信じることができなかった神を信じるようになることです。理性と合理性は神を拒絶します。「天地を神が創造された? 水の上を人が歩いた? そんなことがありえるだろうか」と、みことばを受け入れません。しかし、心に信仰が生まれると、神に対して目が開かれます。たとえ状況が困難でも、神を考えると心は平安になります。神を信じることができます。 私たちが神を信じたので私たちに信仰が生じたのではなく、神が信仰をくださったので私たちは神を信じることができるのです。「主はおできになる」と考えることができ、それを信じることができます。 私のために2千年前イエスが十字架で死なれたということを信じるならば、救いを受けます。それを信じることができるというのは最も重要なことです。現代人はこれを理性的に受け入れることができるでしょうか。私自身のことを考えると、私がどのようにしてこのような理解できないような話を受け入れ、イエスを信じ、奇蹟を受け入れ、希望を持つようになり、神を信じるようになったのかわかりません。信仰の世界は、とても常識では理解することも、把握することも、同意することもできません。しかし、私たちの中に聖霊がおられるのならば、信仰の世界が開かれ始めます。
絶望を絶望させる希望 2つ目は希望です。希望は未来を開く扉であり、絶望を絶望させることのできる力です。人は希望を「夢」「理想」であると言いますが、聖書によると、「奥義」「約束」という2つの単語で表現することができます。 「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロ 1:27)。 まだ明るみになっていないものが奥義です。ですから、未来的な意味があります。奥義の内容が希望を作るのです。クリスチャンはイエス・キリストというとこしえの奥義を持っています。私たちはイエス・キリストを知ってはいますが、すべてを知っているわけではなく、少しずつとこしえに知っていくのです。 「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです」(ヘブ 6:19)。この個所では、「たましいのために安全で確かな錨」という表現が使われています。希望が信仰につながっているならば揺れることはありません。キリスト者は天に積み上げられた希望を持つ者たちであり、祝福された望みを待つ者たちです(テト 2:13)。 「それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました」(コロ 1:5)。 聖書を見ると、信仰、希望、愛がともに登場しているみことばがたくさんあります。信仰がなければ希望はなく、希望がなければ愛はなく、愛がなければ信仰はありません。希望は人生の灯台のようなものです。希望を捨ててはいけません。私たちの人生、仕事、家庭で困難が生じても、最後まで希望にしがみつくならば、生きることができます。 聖書には、希望と似たことばがあります。それは「約束」です。救い、回復、いやし、平安、御国など、聖書には数多くの約束が書かれています。約束と希望の中心には、イエス・キリストが立っておられます。イエスは私たちに現在の約束だけではなく、未来の光り輝く約束をくださいました。ですから、この奥義、約束を知る人々には、この世に打ち勝つ力が生まれるのです。
「愛」なる神 3つ目は、愛です。聖書では愛を明確に定義づけています。それは「神は愛(アガペ)です」というものです。神の愛はとこしえであり、条件のないものです。また、神の愛は献身的であり、犠牲的であり、変わることがなく誠実です。神の愛は本物です。ですから、誰でも神の愛の中に入る者は失望することも傷つくこともありません。 人間の愛の表現は感情的なため、激しく変化します。一方、神の愛は感情的でなく意志的なものです。神は罪深い人間を愛すると決心されました。ですから、私たちが間違いを犯しても愛してくださるのです。愛は、意志だからです。夫婦の愛も同じことです。感情ではなく、意志によって愛さなければなりません。意志によって、相手が何と言っても、何度失敗をしても赦し、受け入れると決心することです。 神は人間を愛するがゆえに存在され、人間は神の愛を受けるために存在します。愛を必要としない人間は一人もいません。食事は抜くことはできても、愛なしで生きていくことはできません。しかし、私たちは人間の愛によって満たそうとするので失望します。その方向を神の愛へと変えてください。そうすれば、たましいが生ける水で満たされるという感動といやしと回復が起こることでしょう。神の愛はすべてを受け入れ、赦し、失敗や欠点を包み、罪まで赦します。しかし、人間の愛はすべてを拒絶します。 多くの人は愛を考えます。しかし、イエスの愛は愛を行動に表します。イエスの愛はイエスの生涯の記録であり、イエスのことばの記録です。イエスの考え、心を抱いてください。イエスの愛を受け入れてください。
すべての聖徒は楽器のような存在である 「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(Ⅰコリ 13:13)。 「いつまでも残るものは」というのは「一つも抜けてはならない」という意味です。互いが互いに力を与え、励ますという意味です。愛の合奏曲を演奏するためには、このみことばを聞き、読んだ人が一人でも抜けてはならないのです。「どうせ私なんて…」「私一人抜けても…」と言って、抜けてはならないのです。「私は高価で尊い」「私は抜けてはならない」と言ってください。皆さん一人一人が大切であり、必要不可欠な人であり、神の目には尊い人なのです。 「一番すぐれているのは愛です」は、「信仰のために愛を立て上げなさい。希望のために愛を立て上げなさい。愛のために愛を立て上げなさい」と言い換えることができます。皆さんに神の祝福があふれ出るようにお祈りします。皆さんは本当に大切な人です。
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