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日本キリスト教の足跡を追って ⑩
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戦時下の教会の罪 |
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戦時下の教会の罪 東京基督神学校校長 ● 山口陽一
今回は、戦時下の教会の罪についてです。私たちは、自分は罪の無い者として先達の罪を責めることなどできません。世代を超えて、一つのキリストの体の犯した罪を、同じ罪を犯す弱き者として覚えたいと思います。戦時中を生きたキリスト者は、気骨ある立派な信仰者です。そんな人々でさえ巻き込まれた時代の荒波に、私たちは耐えられないでしょう。主のあわれみのゆえに、背きを繰り返さず、神と隣人を愛する者になりたいと願って、戦時下の教会の罪を心に刻みたいと思います。
1.聖戦 1928年の日本基督教連盟「社会信条」は、<軍備縮小、無戦世界の実現>を掲げていました。しかし、1936年の総会でこれらの文言は削除され、<不戦条約の促進、世界平和の強調>に修正されます。1941年、対米開戦直前の11月24日、日本基督教団は文部省から設立を認可されました。キリストの教会が創立総会(6月24日)だけで成立できなかったところに根本的な問題がありました。 1942年10月の「日本基督教団戦時布教指針」は、大東亜戦争を「聖戦」と呼びます。 「殊ニ本教団ハ今次大戦勃発直前ニ成立シタルモノニシテ正ニ天業ヲ翼賛シ国家非常時局ヲ克服センガ為ニ天父ノ召命ヲ蒙リタルモノト謂ハザルベカラズ」 つまり大東亜戦争に勝利するために神の召しを受けて成立した日本基督教団であるというのです。布教指針の綱領の第一は、「国体ノ本義ニ徹シ大東亜戦争ノ目的完遂ニ邁進スベシ」でした。1943年の秋以降、日本基督教団では全国の教会から72万円を超える献金を集め、海軍に2機、陸軍に2機の戦闘機を献納しました。海軍に献納された軍用機の主要両翼には「報國-3338(第一日本基督教團號)」とあります。ちなみに、後述する「部制」廃止の時の、完全合同成立感謝献金は目標額50万円に対して26万円でしたから、戦闘機献納献金がどれほど支持されたかがわかります。 次ぎに掲げたのは、戦局が悪化の一途をたどる中、1944年8月18日に出された「日本基督教団決戦態勢宣言」の一節です。宸襟とは天皇の心のことです。 「此ノ時ニ当リ皇国ニ使命ヲ有スル本教団ハ皇国必勝ノ為ニ蹶起シ、断固驕敵ヲ撃摧シ、以テ宸襟ヲ安ンジ奉ラザルベカラズ」
〈 報國-3338(第一日本基督教團號) 〉
2.神社非宗教論 明治政府は、祭政一致をめざして神祇官を設置、1871年には官幣社国幣社制度を再興しました。「信教の自由」に関して、神社はいつも問題でした。1900年、政府は内務省社寺局を神社局と宗教局に分け、1913年には宗教を文部省の所轄、神社は内務省と分けて制度を整えます。こうして巧みに神社を非宗教と言い抜け、1940年には神社局が神祇院に昇格して敗戦まで続きます。わかり易く言えば、官幣社は国立神社、国幣社は県立神社でした。天皇のために戦って死んだ人を神(英霊)として祭る靖国神社は別格官幣社です。 1930年、プロテスタントの諸教派・団体は、神社制度調査会に「神社問題に関する進言」を提出し、神社が宗教であるなら参拝を強制しないことを、神社が宗教でないなら宗教的要素を排除することを要望しました。しかし、聖書に従う教会の任務として、神社を偶像と判断し拒否することができず、1933年の美濃ミッション神社参拝拒否への迫害についても、朝鮮半島における神社参拝の強制に対しても、反対を表明することはできませんでした。朝鮮では、1925年に天照大神と明治天皇を祭神とする朝鮮神宮が創建され、神祠数は1930年に231、1935年324、1940年702、1945年1141となります。参拝の強要は1935年以降に激しさを増しました。1938年、日本基督教会大会議長の冨田満は、朱基徹牧師らに神社参拝を説得します。 「諸君の殉教精神は立派だが何時日本政府は基督教を棄てて神道に改宗せよと迫ったか、その実を示して貰ひたい。国家は国家の祭祀を国民としての諸君に要求したに過ぎまい」 しかし、朱基徹牧師は、神社参拝は第一戒違反であると主張して譲りません。神社参拝拒否で200教会が閉鎖、2000人が投獄されました。この年の27回朝鮮イエス教長老教会総会は神社参拝を決議し、総会議員たちは平壌神社に参拝します。反対者は事前に拘束され、官憲が見張る中での決議でした。あくまでも反対を続けた朱基徹ら50人は殉教します 。
〈 平壌神社 〉
3.日本基督教団 日本の教会は最初から合同志向でした。日本基督公会は無教派主義でしたし、長老教会の日本基督一致教会になってからも会衆派の日本組合基督教会との合同を計画します。教派を超えた全国基督教信徒大親睦会は1885年に福音同盟会となり、1911年に日本基督教会同盟、1922年に日本基督教連盟となって教会合同運動を進めました。1939年の宗教団体法によって日本基督教団は成立しますが、悲願成就の教会合同でもあったのです。文部省は教会を支配しますが、軍部から教会を守ったという側面もあります。創立時の教団は、信仰告白を定めることができず、文部省から求められた「教義の大要」で済ませ、教派間の越え難い違いは「部制」で対応しました。 第一部「日本基督教会」、第二部「日本メソヂスト他」、第三部「日本組合基督教会他」、第四部「日本バプテスト教会」、第五部「日本福音ルーテル教会」、第六部「日本聖教会」、第七部「日本伝道キリスト教団」、第八部「日本聖化基督教団」、第九部「きよめ教会他」、第十部「日本独立基督教会同盟会他」、第十一部「救世団」 「教団規則」の第七条「生活綱領」はプロテスタント教会としての致命的な過ちでした。 プロテスタント教会として「聖書に従って」と言うべきところが「皇国の道に従って」となってしまったからです。 「皇国ノ道ニ従ヒテ信仰ニ徹シ各其分ヲ尽シテ皇運ヲ扶翼シ奉ルベシ」 教団統理の富田満牧師は、皇国の道に従って伊勢神宮に参拝し、新しい教団の発展を祈願しました。これは個人の問題ではなく教団の問題です。第六部と第九部の旧ホーリネス教会が弾圧されたとき、教団は該当する教師に辞職を迫り、あるいは皇国民としての「練成」を図りました。そして「部制」廃止に進みます。宮城遥拝、国歌斉唱などの国民儀礼の実施を各教会に指示し、神学ではなく「日本教学」の確立に努め、戦時にふさわしい『興亜讃美歌』を作り、「殉国すなわち殉教」という日本的キリスト教を生み出しました。宮城遥拝とは、全国どこからでも、朝鮮半島や中国からでも皇居に向かって礼拝をすることです。「殉国すなわち殉教」とは、聖戦である大東亜戦争での戦死は殉教であるという論理でした。讃美歌委員会が編集した『興亜讃美歌』(1943年)には、このような一節があります。 「光栄(さか)えある皇国(みくに)に生まれ、すめらぎ(天皇)にまつらふわれら、日々のわざ励む心は、あまつかみこそ知ろしめすらめ」(四番一節) キリストの花嫁は、キリストのためにではなく、天皇のために身支度を整えることになってしまったのです。本当に守るべきことを守れなかったことが悔やまれます。
〈 出征兵士への寄書と日本的キリスト教の書物 〉
4.敗戦時の教団 1945年8月15日、日本基督教団の幹部たちは、焼け残った神田錦町の教団事務所でポツダム宣言受諾放送を聞き、承詔必謹の祈祷会を開きました。戦勝を信じ、最後まで戦い抜くつもりでしたが、天皇の詔勅には謹んで従わなければならないということです。翌々日には、日本教学の樹立と日本伝道に邁進し、「我らキリスト者の時代が来た」等の軽率な言動をしないことを申し合わせます。そのため、戦後最初の礼拝では、立てられた権威に従うことを教えるローマ書13章が選ばれたりしています。 戦後最初の統理指令、「教団と終戦」では、深刻な懺悔が語られますが、それは偶像礼拝や戦争協力を神と人の前に悔い改めるものではありません。天皇にお仕えする力が足りずに戦争に敗れてしまった責任を懺悔し、新日本建設のための新たな報国を誓うものだったのです。戦争中には戦争遂行のため、戦後は新日本建設のため、目標は変わりましたが「報国」のキリスト教としては変わりがありませんでした。はなはだ晴れ晴れとしない戦後のスタートでしたが、ともかく狂気の時代は終わりました。
山口陽一 1958年群馬県に4代目のクリスチャンとして生まれる。金沢大学、東京基督神学校、立教大学に学ぶ。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会、日本基督教団吾妻教会牧師を経て、現在東京基督神学校校長、日本同盟基督教団市川福音キリスト教会牧師。
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