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日本キリスト教の足跡を追って ⑧
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隣人愛と福祉 |
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隣人愛と福祉 東京基督神学校校長 ● 山口陽一
「我が基督教社会事業―それは云ふまでもなく我国社会事業史の中核をなして来た―」日本における社会福祉の先駆者の生江孝之の言葉です(『日本基督教社会事業史』教文館、1931年)。キリシタン時代の慈悲の所作、明治以降のカトリックの慈善、プロテスタントの社会事業は、日本の福祉の牽引車の役割を果たしますが、その原点は神の愛でした。
1. カトリックの慈善事業 1874年、長崎を襲った暴風雨とその後の赤痢の大量発生の中、フランス人宣教師ド・ロは救護活動に挺身しました。その働きを手伝った岩永マキは、同年、孤児を引き取って浦上育児院を始めます。彼女は、浦上キリシタンとして苛酷な迫害を受けて生き残った一人でした。長崎の聖嬰会、五島の奥浦慈恵院、横浜のサン・モール会和仏学校など、明治20(1887)年ころまでに設立された育児施設は、ほとんどカトリックによります。 1889(明治22)年のテストウィド神父による神山復生病院は、わが国における最初のハンセン病施設であり、大正期に入ると結核療養所が各地に作られます。「カトリックの社会事業は、戦前にあっても、その時々に最も必要とされる、そしてそうでありながら、最も見捨てられていた領域の救済・援助活動をしていた。明治初期にあっては、乳幼児そして大正・昭和初期にあっては、結核患者であった」といわれます(田代菊雄『日本カトリック社会事業史研究』法律文化社、1989年)。 キリシタンは、「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25章40節)と言われたイエスへの愛として「慈悲の所作」に尽くしました。この精神は、カトリックの信仰に脈々と流れています。 明治期のカトリック布教は、1904年にスペイン系のドミニコ会、1907年にドイツ系のフランシスコ会が来日するまで、パリ外国宣教会がこれを担いました。同会は長崎周辺の「復活キリシタン」の魂への配慮と共に、慈善・救済活動に力を尽くしました。彼らは、その時々に助けを求める人々に惜しみなく手を伸べ、施しをしたのです。
2. プロテスタントの社会事業 これに対し、プロテスタントの働きは、社会事業の性格を強く持っていました。天下国家のため「報国の志」を抱いて横浜・長崎に遊学した青年士族、あるいは殖産興業で富国をめざす田舎紳士(地方の豪農・篤志家)たちに受容され、近代日本の建設と深く結び着くことになります。 プロテスタントの社会事業の根本も隣人愛です。石井十次が1887年の岡山孤児院の設立に際し、「慈善会設立趣意書」に記したのは、ヨハネの手紙第一3章16~18節です。 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」 徳川幕府の元与力(警察)の原胤昭は、自由民権運動に絡んで石川島に収監され、劣悪な待遇の中で九死に一生を得ました。彼はこの体験から監獄改良と教誨、出獄人の保護に生涯をささげることになります。そのモットーは、自分の囚人番号316に因むヨハネ3章16節でした。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 神の愛を受けたことにより、彼らは愛を行なう者となりました。これらはいずれも、誰も手をつけない分野での奉仕でした。召命感と隣人愛に支えられた彼らの活動は、近代化を急ぐ日本の「破れ口に立つ」働きでした。
3. ディアコニアと国策協力 1890年代、プロテスタントは国家主義との衝突による伝道の困難を経験しました。日本の国体と相容れないとされたキリスト教が国民に受け容れられるために、社会事業が果たした役割は大きいのです。文明国になろうとする日本は、キリスト教にこのような働きを期待しました。20世紀に社会主義が台頭すると、政府は、宗教による人心の安定と社会主義の封じ込めを期待するようになります。大正時代、「教育と宗教の衝突」から「教育と宗教の融和」という変化の中で、キリスト教の社会事業は大きく飛躍することになります。 廃娼・禁酒運動では、矢島楫子らの婦人矯風会(1886年~)や山室軍平の救世軍(1895年~)が活躍しました。更生保護では留岡幸助の家庭学校(1899年~)、知的障碍児教育の草分けは石井亮一の滝乃川学園(1897年~)、聖公会の「救癩事業」やアイヌ教化、数え上げればきりがありません。 とりわけ救世軍は「日本の社会事業の中の社会事業である」と評されます。田川大吉郎は『社会改良史論』(教文館1931年)において次のように述べています。 「救世軍の社会事業は、その質において、精神に於て、たしかに日本の社会事業の中の社会事業である。試みにその一斑を掲ぐれば、人事相談部・刑務所警察署訪問部・旅客の友部・婦人救済部・労働者寄宿舎(努力館・自助館・民衆館)・動労紹介所・労作館(釈放者保護所)・感化院・飲酒感化院・育児院・保育所・婦人ホーム・婦人収容所・女子希望館・社会殖民館・結核療養所・病院・歳末救護運動・克己週間事業等である。乃ち有らゆる社会事業の種類は、ほとんど一切を残さず網羅しているのである。」 私たちは、先人たちのこうした働きに心から敬意を表したいと思います。この間、教会はさまざまな事業を背後で支え続けました。しかし、慈善を教会の直接的使命と考えたカトリックと違い、プロテスタント教会の社会事業への関わりは間接的でした。神の国の到来を目に見えるものとする教会のディアコニア(奉仕)は、理論としても実践としても弱かったのです。これが教会内の福祉に留まらない広範な社会事業を生み出した理由でもありますが、日本のプロテスタント教会の課題でもあります。福音宣教は教会の使命の中心ですが、神の愛による支配(神の国)をもたらすこともまた同様なのです。 「神の国運動」(1930~35)は、賀川豊彦らが主導し、宣教70周年を期して行なわれた日本プロテスタント史上最大の組織的伝道でした。しかも日本基督教連盟の「社会信条」に基づき、日本に神の国をもたらすことが目標とされました。日本のプロテスタントは70年でここまで成熟しました。しかし、この運動は戦争の時代の荒波に呑み込まれ、神国日本に吸引されてしまいました。
4. 戦争を乗り越えて 禁酒や禁煙は国防のための贅沢禁止に、公娼廃止やハンセン病患者介護は、隔離による国辱隠しの意味を強めます。戦争と福祉は対極にあり、キリストの社会事業は「大東亜戦争」によって逼塞しました。 顧みれば、そもそも明治政府に福祉政策はありませんでした。富国強兵・殖産興業に突き進む政府は、公的扶助責任ではなく皇室の下賜金による御慈悲の慈善救済を行なったのです。しかし、大正デモクラシー期になると国による社会事業が表われ、1917年、内務省に設けられた救護課は1920年に社会局となり、1929年の救護法(1932年施行)により、救護は国家の責任とされます。1938年には国民保護、労働、社会事業を所管する厚生省が設置されますが、戦時下においては、民間社会事業の指導監督が強化されたに過ぎません。 戦争に協力した教会は、隣人へのディアコニアを国への奉仕に置き換えてしまいました。「戦時中に逼塞したキリスト教社会事業に、戦後は昔日の活発な活動がみられないのは残念である」と嘆くのは三吉明(『キリスト教社会福祉概説』日本基督教団出版局)ひとりではないでしょう。 しかし、戦後の日本でも、知的障碍児のための働きにおいて、〈この子らを世の光に〉をモットーとした近江学園の糸賀一雄、〈ためにではなく共に〉をめざす止揚学園の福井達雨、〈いい病気してますね〉と精神障碍者と共に生きる北海道浦河の「べてるの家」など、聖書の人間観に基づく生き方をユニークに発揮している人々や働きは脈々と続いています。
〈 岡山孤児院 〉 〈 救世軍 〉
山口陽一 1958年群馬県に4代目のクリスチャンとして生まれる。金沢大学、東京基督神学校、立教大学に学ぶ。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会、日本基督教団吾妻教会牧師を経て、現在東京基督神学校校長、日本同盟基督教団市川福音キリスト教会牧師。
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