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愛の交響曲③
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愛は礼儀に反することをせず |
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愛は礼儀に反することをせず
ハ・ヨンジョ ● オンヌリ教会主任牧師
愛は礼儀に反することをせず 「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます」(Ⅰコリ 13:5~6)。 ここには愛に関する五つのメッセージがあります。一つ目に、愛は礼儀に反しません。このみことばを実際に行ったのがイエスです。イエスの私たちへの愛も、礼儀に反した方法では現されませんでした。主は万軍の王ですが、私たちの心に中に入って来られる前に、心の扉をノックされます。そして私たちがその扉を開けると、入って来られるのです。 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、…」(黙 3:20)。 イエスは無作法に扉を開けて入ってはこられません。誰かがノックもなしに、突然私たちの部屋に入ってきたとしたら、どんなにあわてることでしょう。 主はとても丁重に私たちに接してくださいます。誰かが私に丁重に接してくれるなら、私たちはその人に愛を感じます。イエスは私たちを無作法に扱かったりはされません。イエスは私たちが病の床にいるとき、孤独なとき、空腹のとき、悪霊につかれたとき、一番に駆けつけてくださり、病気をいやしてくださいます。救いの話を最初にはされません。ですから、誰でもイエスに会えば後をついて行かずにはいられません。 自分に対して無礼をせず丁重に扱ってくれる人なら、誰であっても自然に頭が下がります。それ自体が感動であり、涙が出ることです。この厳しい世の中のすべての人々が私を無作法に扱っても、イエスは私をそのように扱うことをせず、丁重に接してくださいます。イエスは私たちが嵐のような危機の中にいるとき、水の上を歩かれ、風をしずめ、安全な場所に導いてくださる方です。
相手を高める この世の愛はどうでしょうか。礼儀に反し、支配的であり、暴力的であり、攻撃的です。それにもかかわらず、人々は偉大な愛だと自慢します。みだりにひどい言葉を使い、それだけでなく暴力をも振るいます。 私が今回手術をして変わったことがあります。妻に丁寧な言葉遣いで話すようになったことです。すると、妻も私に丁寧な言葉で話してくれるようになりました。相手に敬意を表してください。ご主人に無作法に接するのではなく、礼儀を尽くしてください。礼儀は人格です。 私は日本で、チャン・ジェユン牧師からとても感動的な話を聞きました。40代の鈴木さんという方はQTをしながら、「もう乱暴な言葉遣いはしてはいけない。お客さんに礼儀正しく接しよう」と決心をしました。この方は、お客さんのクレームを処理する仕事をしていました。ある日、お客さんが2時間も怒りながら不平不満をぶちまけました。鈴木さんは神と約束をしたために、2時間じっと我慢し、礼儀正しく接しました。すると、その人が帰るとき、「すみませんでした」と言ったというのです。数日後、本社から連絡が来ました。ある人が本社の責任者に電話をし、「御社の支店にはすばらしい人がおられます。とても感動しました」と言ったそうです。こうして鈴木さんは、翌日本社に異動になりました。これが礼儀に反しない人への神の祝福です。
自分の利益を求めず 二つ目に、愛は自分の利益を求めません。まことの愛は利己的でも自己中心的でもないという意味です。人々がお互いに争い、憎み、敵対する理由は何でしょう。腹を立てて、無礼を働くのはなぜでしょうか。理由は簡単です。欲望のためです。なぜ欲望が生じるのでしょうか。利己心のせいです。世界は自分を中心に回らなければならないという考えのためです。そのため自分の考えや主張に反対する人を攻撃し、嫌うのです。 教会には自分の意見も言わず、ただ黙々と奉仕されている方たちがいます。どれほど尊敬に値するでしょうか。このような従順は簡単なものではありません。人は一円でも多く稼ぐために、また一人でも多く自分の味方を作るために、腹を立て、争い、競争をします。問題が起き、困難を味わうのは、欲が過ぎてしまったためです。著名人が子どもを性の対象としてしまうことがあります。利己心、欲望、情欲のせいです。売春宿が繁盛し、その数が多いのは、人間の心の中にある利己心のせいです。しかし、まことの愛は自分の益を求めたりはしません。 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」(ピリ 2:3~4)。 このみことばに線を引き、よく黙想してください。私たちがイエスを愛するのは、主のことばや行動、奇蹟の中には利己心を探し出すことができないからです。イエスはご自身のためではなく、ただひたすら神の御心のために働かれました。病を患う者、悪霊につかれた者、孤独な者のために働かれたゆえに、多くの人がイエスを愛したのです。 利己心を捨ててください。そうすれば人々は皆さんのところに集まり、皆さんを愛することでしょう。
愛は怒らず 三つ目に、愛は怒りません。怒りはいつも問題になります。怒りのせいで、苦しむ人がたくさんいます。怒った時には後悔するのですが、また怒ってしまうのです。しかし、このみことばを見ると、愛があればどんなに困難な状況を経験しても怒らないとあります。 人間には喜怒哀楽という感情があります。これらの感情自体が罪だとは言えません。感情には「正しい」「間違っている」はありません。感情は罪とは関係なく、ただ喜び、ただ悲しみ、ただ怒るのです。 怒ることは罪ではありませんが、罪へ変わりやすいのです。怒りが変われば憤怒になり、憤怒は罪を呼び起こします。 「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません…」(エペ 4:26~27)。 私が幼い頃、日が沈むと、父は必ず母のところに行き、「私が悪かった。もう怒らないでおくれ。聖書に、怒っても罪を犯してはならないとあるから、私を赦しておくれ」と言っていました。母を怒らせておいて、みことばを示しながら、もう怒らないようにと言うのです。このような姿を見て大きくなった私は、どんなに腹が立っても次の日に持ち越すことはしませんでした。 怒り自体は罪ではありません。ただの感情です。それを感じるだけなのです。腹が立ったら、それを認めるしかありません。では、なぜ腹が立つのでしょう。拒絶感、傷、濡れ衣を着せられた経験や理不尽な扱いを受けた経験のためです。そのため、それと似た状況になると怒りがわきあがってくるのです。ここで注意すべきことは、愛がある人は怒りという罠には陥らないということです。陥ったとしても、すぐにそこから抜け出せます。
愛は人のした悪を思わず 四つ目に、愛は人のした悪を思いません。愛は怒っても罪を犯さず、恨みを抱きません。この世には恨みを抱き、赦さないまま生きている人がどれほど多いでしょう。実際のところ、自分の人生を壊した人を赦すのは簡単ではありません。暴力を振るう人、事業をだめにした人、保証人になってあげたのに逃げた人、侮辱して傷つけた人、人間関係を奪ってしまった人など、どうすれば簡単に赦すことができるでしょうか。 この怒り、恨み、傷にはいくつかの特徴があります。よく考えれば考えるほど、傷が深くなります。赦しにくい人や憎んでいる人を忘れることができず、毎日その人を見て、苦しみながら怒ります。そのようになれば、少しずつ憎悪が大きくなり、傷も大きくなります。 また別の特徴は、自分がつけた傷は忘れ、受けた傷だけを覚えているということです。しかし同時に、奇蹟のようなことですが、愛するなら、怒り、憎悪、傷が消えてしまうのです。 主の祈りにはこうあります。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」(マタ 6:12)。 私たちは赦したことがないのに、どのようにして赦しを受けることができるでしょう。このみことばは、「赦されることと赦すことは同時にすることだ」という意味です。自分の罪が赦されることがあってこそ、他の人の罪を赦す力が生まれます。ですから、神の御前で赦された経験がなかったり、自分は神の御前で罪人だということを悟れない人は赦すことができません。 愛は真理を喜びます 最後に、愛は不正を喜びません。「不正を喜ばずに真理を喜びます」(Ⅰコリ 13:6)。私たちの感情は変わるものです。感情に振り回されると、人生は激しく揺れ、とても複雑になってしまいます。そして、危機に直面し、非人格者だと言われるようになります。感情は変わりますが、真理は変わりません。真理を基準にして生きていく人は、必ず人格者へと変わります。 「愛は不正を喜ばない」ということは、愛は罪を喜ばないということです。愛は他人の不幸や人の間違い、うそを喜びません。サタンが勝利することや不法が勝つこと、悪がはびこることを喜びません。真理を喜び、正直さや正義を喜び、他人の幸せを喜びます。 今回は五つの愛に関してお話しました。愛は礼儀に反することをせず、自分の利益を求めません。愛は怒らず、人のした悪を思いません。不正を喜ばずに真理を喜びます。簡単なことのようで簡単ではありません。このみことばを理解できない人はいないでしょう。決心さえすれば、きょうにでも実践することができます。それが神のみことばです。 聖霊が皆さんとともにあり、きょうからこの愛を実践することを願います。感情ではなく真理によって愛してください。不正を喜ばないでください。真理に人生の錨をおろしてください。感情的には苦々しく、複雑で、嫌悪感を覚えたとしても、真理に従えば神の祝福が臨むことでしょう。
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