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愛の交響曲①
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愛がないなら |
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愛がないなら コリント人への手紙第一 13:1~3
ハ・ヨンジョ ● オンヌリ教会主任牧師
第一コリント13章を見れば、神やイエスという言葉は出てきません。しかし、この第一コリント13章ほど、神の愛とイエスの愛を明らかに教えてくれる本文はないでしょう。よく知られているみことばですが、私はこのみことばを再び握り、“愛の交響曲”という主題で、愛について、7回にわたるメッセージを伝えたいと思います。
愛の言葉で 第一コリント13章に出てくる愛とは何でしょうか。「愛がないなら、何の値うちもありません」(2節)というみことばは、序論であると同時に本論でもあります。 「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」(1節)。第一に、愛がなければやかましいどらや、うるさいシンバルに過ぎません。「人の異言」とは何でしょう。私たちは外国語を話す人の前に出ると萎縮してしまうことがあります。英語の上手な人の前でもそうです。宣教師たちの最も大きな壁は言語の問題です。この問題を解決できなければ、福音を伝えることができないからです。世界には数え切れないほどの言語が存在します。しかし、数千種類の言語を流暢に駆使できたとしても、愛がなければただのやかましいどらに過ぎないのです。 「御使いの異言」とは何ですか。これは人の言語と正反対の概念です。地の言葉ではなく、天の言葉です。異言にもレベルがあります。ある人は、本当に御使いが語る言葉のように美しく成熟した異言で賛美し、祈ります。私はそのような人に何度か会ったことがあります。異言について批判的な人もいますが、本当に聖なる異言の前では謙虚になり、頭が下がるものです。かつてアメリカで、ある牧師にお会いしたときのことです。その方が私の手をぎゅっと握り締め、「牧師先生、お祈りしてもいいですか」と言って、預言をしました。とても驚きました。非常に衝撃的でした。そのような天の言葉を駆使する人々がいます。しかし、コリントのみことばを見ると、人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければやかましいどらや、うるさいシンバルに過ぎないと書いてあるのです。
すべてを愛によって 「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません」(Ⅰコリ 13:2)。第二に、愛がなければ何の値うちもありません。人の知識の中で最も優れた知識は、過去を解釈する知識や現在を理解する知識ではありません。まだ来ていない未来に備える知識こそ最も優れた知識です。“預言の賜物”はこれから起こる事について霊的にあらかじめ悟り、判断する賜物です。最近、聖霊について敏感な人が各地に多く現われています。韓国、アフリカ、南米など、強いいやしの力を持ったしもべがたくさんいます。あらゆる奥義を知る人がいたならどうでしょうか。おそらく、その人は長くは生きていられないでしょう。山を動かすほどの信仰を持っているならどうでしょうか。おそらくそのような人が牧会するなら、私などは退かなければならないでしょう。たった一言で人々の病がいやされ、信仰によって山を動かす人々はどれほど偉大でしょうか。しかし、このような力があったとしても、愛がなければその力は何の値うちもないというのが、このみことばです。イエスも病を多くいやされました。イエスの奇蹟を見ながら、私たちが見逃してはならないことがあります。それは、イエスの心の中には、人に向けられ、病人に向けられたあわれみの心、愛があったということです。
愛に価値を置いてください 「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(3節)。 最近、世の中では慈善やボランティアに大きな価値を置いています。ですから、イエスを信じていない人も、自分の全財産を寄付したり、時間を割いて奉仕をしたりします。 実際、自分のすべての財産をみな売り払って貧しい人に分けてあげるなら、これほど大きな愛がどこにあるでしょう。私たちイエスを信じる人の中には、けちな人も多くいます。献金する度に緊張し、教会で少しでもお金の話が出ると、ため息をつくような人がいます。しかし、このみことばに出てくる人はそうではありません。自分の全財産を分け与える人です。しかし、慈善を施し、奉仕を数多くし、人々が覚えきれないほど多くの善行をし、その上からだを火に投じたとしても、その中に愛がなければ何の役にも立たないのです。 最近の私たちの社会を見ると、実に心が痛みます。正義と平和を叫んでデモをしますが、その顔には爆発的な怒りがあります。愛のないデモ、奉仕、叫び声は何の意味もありません。私たちに本当に必要なのは愛です。
“私には”愛があるだろうか 第一コリント13章1節から3節のみことばを見ると、特異なことがあります。「愛がないなら」ということばが繰り返し登場することです。他の人に愛があるかないかは重要なことではありません。重要なことは、私に愛があるかということです。 この世は「あなたには愛があるの?」と問いかけ、他の人に愛を求めます。ある人はこの世には愛がない、教会には愛がないと不満を吐き出します。しかし、自分はどうですか。大抵、自分に愛がない人ほど、他の人に愛がないと口にするものです。正義がない人ほど、正義感に燃えやすいものです。ヤコブの手紙にはこのようなみことばがあります。「それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです」(ヤコ 2:17)。 行いのない信仰が死んだ信仰であるように、愛のない行いは何の値うちもありません。何の役にも立ちません。このことを再び整理してみるなら、1節には異言と御使いの言葉、2節には預言の賜物、あらゆる奥義、あらゆる知識、山を動かすほどの完全な信仰、3節には施しや奉仕などが出てきます。しかし、3つの節に共通して記されている結論は、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じであり、何の値うちもなく、何の役にも立たないということです。
私たちには愛が必要です ここで3つのことを黙想したいと思います。第一に、人間のあらゆる領域には愛が必要だということです。ある実験によれば、花や木に絶えず“愛しているよ(I Love You)”と語りかけると、花や木はよく育つそうです。また、水にも“愛しているよ”と語り続けていると、水の分子が変わるそうです。 愛されて育った動物と虐待されて育った動物は異なります。虐待された動物はいつもおびえ、人目を避け、人の目を窺います。虐待されて育った人と愛されて育った人の差は言うまでもありません。 個人、家庭、社会、国家で最も必要なものは愛です。上手くできたなら、ほめてあげてください。のろってはいけません。子ども、夫、妻をのろわないでください。絶えず祝福してあげてください。そうすれば、国も、社会も、家庭も崩壊したりはしません。これが霊的な原理です。 愛するなら、うまくいきます。しかし、愛さないなら、すべてがだめになってしまいます。皆さんの学校、職場を愛してください。愛することができないなら、柱一本にでも手を置いて祈ってください。「この学校を愛します。先生方を愛します。学生たちを愛します。」このように祈るなら、世の中は変わることでしょう。すべての領域には愛が必要です。叱りつけ、批判し、告発したからといって、人は変わることはありません。怒りをぶつけ、批判し、他人を告発したりしないでください。 ある人は、愛情を注ぐと甘やかされてくせになると言います。それは愛情を注いだからではなく、気まぐれな愛情のためです。いつも変わらず愛し、信じてあげるなら、必ず変わります。夫を絶えず信じてください。妻を絶えず愛してください。気まぐれな感情で愛するのはやめてください。神の方法は一貫した、変わらぬ愛で愛することです。甘え癖がつくなどと心配せず、最後まで愛してください。幼い子どもたちばかりではありません。世のすべてのものも、人も愛を求めているのです。
愛は死のように強い 第二に、「愛がないなら」ということばです。私は皆さんがこのみことばを静かに黙想されることを願います。胸に手を当ててみてください。私たちはいつでも他の人に愛がないと言います。しかし、果たして私には愛があるかどうか、もう一度考えてみてください。私には子どもへの愛があるか、妻を本当に愛しているか、考えてみてください。そんな感動的な愛を経験したことがありますか。 雅歌にこのようなみことばがあります。「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません」(雅 8:6~7)。「封印のようにあなたの腕につけてください」という表現を見てください。愛は私たちの胸に封印をつけるものです。「愛は死のように強く」という表現もあります。愛は死のように強く、洪水によっても押し流すことができません。これが愛です。これがイエスの私たちへの愛です。御使いの異言、人の異言、預言、奥義、知識、信仰、施し、奉仕も愛には代えられないものです。
すべての基礎は愛です 最後に、愛がなければ何の役にも立ちません。今まで私が積み上げてきたすべてのこと、知識、学力、結婚、子どもなど、私が生涯をかけてなしてきたことも、愛がなければ何の値うちもありません。 私の説教の基礎も愛でなければなりません。愛する皆さんの中に、イエスのこの愛が満ちあふれるように祝福します。
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