10年で日本をキリスト教国に! 東京基督神学校校長 ● 山口陽一
1883(明治16)年、バラ宣教師は、羊のかたわらで眠り込んでいる羊飼いの夢を見ます。断崖絶壁の上で草を食べている羊たちを守っていたのは天からの光でした。バラは、初週祈祷会でこのことを語り悔い改めます。宣教師としての自分の怠慢を告白するバラは、熱心な宣教師でしたから、人々は心を打たれ、悔い改めは広がり、リバイバルとなりました。その結果、日本は10年でキリスト教国になると期待する時代がおとずれました。
佐幕派士族の入信 プロテスタント最初の受洗者矢野元隆から遅れること半年、1866年5月20日、長崎でフルベッキから洗礼を受けたのは、佐賀藩家老村田若狭守政矩とその弟綾部でした。1864年に函館から脱国した安中藩士新島襄がアンドーヴァー神学校付属教会で受洗したのも、この年1866年12月31日です。以来、多くの青年士族が最初期の入信者に名を連ねます。 幕臣の植村正久、津軽藩の本多庸一、会津藩の井深梶之助、松山藩の押川方義、彼らは旧幕府側について明治維新の敗者となった人々でした。政治的な立身を望めない境遇にあって精神の維新を企てた、と同時代のジャーナリスト山路愛山は『基督教評論』(岩波文庫)で述べます。学問を修め、経世済民の役割を担ってきた士族が、伝道者・牧師となって明治の教会をリードすることになりました。
各地から続々と 1873年、切支丹禁令の高札撤去により、一気に29人の宣教師が来日しました。高札撤去後最初の主日にバプテスト派の横浜第一浸礼教会が設立されます。日本基督公会は、東京基督公会(1873年9月20日)、摂津第一基督公会(神戸・1874年4月19日)、摂津第二基督公会(大阪・5月24日)を設立し、神戸と大阪の教会は会衆派となります。長老教会は、横浜第一長老公会(指路・1874年9月13日)、東京第一長老公会(10月18日)を、メソヂスト派も横浜教会(上原・1875年6月20日)を設立しました。その後、無教派主義を標榜する日本基督教会は、上田(1876年10月8日)と長崎(12月13日)に教会を設立し、長老教会と合同して日本基督一致教会となります(1877年10月3日)。 1876年、九州の熊本で「報国」の志を抱く熊本洋学校の学生たちが教師ジェーンズに導かれ「奉教趣意書」に署名。その後、初期の同志社に学び日本組合基督教会(会衆派)の牧師となります。熊本バンドと呼ばれる人々は、海老名弾正、小崎弘道、宮川経輝、横井時雄、金森通倫らでした。1877年、札幌農学校の一期生は「イエスを信ずる者の契約」に署名します。翌年には内村鑑三らもこれに加わる一群は、札幌バンドと称されました。 このように各地でキリスト教の萌芽がみられますが、ここではあまり知られていない静岡の場合を見てみましょう。1874(明治7)年9月27日、静岡の賤機舎に迎えられた宣教師マクドナルドにより11名の若者が受洗、同年中に27人が洗礼を受けました。これに続く人々の中に先述の山路愛山もいます。 600万石の徳川家が70万石に減封され移住した静岡には、旧幕府の秀才がぞろぞろいました。やがてクリスチャンになる中村正直もその一人です。『自由之理』や『西国立志篇』で知られる彼は、『擬泰西人上書』において、天皇も洗礼を受けてキリスト教徒となるべきと説いた儒者でした。今井信郎は、1841(天保12)年、江戸の旗本の家に生まれ、幕府直轄の講武所師範となった人です。やがて幕府が京都の治安維持のために結成した見回組の副隊長となり、慶応3年11月、近江屋で坂本龍馬を斬った一人とも言われます。戊辰戦争では徹底抗戦、五稜郭でも戦いました。敗れてお預けになった静岡で回心、村会議員や村長、農会長や校長などをつとめ、地元民の尊敬を集めました。今井に伝道したのは元新撰組の結城無二三でした。彼は1879(明治12)年に受洗、新撰組出身の伝道者となりました。息子の禮一郎が書き残した父の数奇な生涯『お前達のおぢい様』(『旧幕新撰組の結城無二三』中公文庫)は興味深い読み物です。 平岩愃保、山中笑、土屋彦六、三人とも幕臣の子で、カナダメソヂスト教会最初の牧師たちです。平岩は、日本メソヂスト教会第二代監督となる政治的手腕にたけた人でした。山中は、柳田國男も認めた民俗学者の草分けで筆名を共古と言い、『砂払』上下(岩波文庫)、『共古随筆』(平凡社東洋文庫)があります。古き日本への思慕とイエス・キリストへの信仰をあわせ持った人でした。土屋の兄、杉山孫六は横浜でいち早く洗礼を受け、通訳として新政府から月給150円の高給を受けていましたが、これをうち捨て静岡に戻ります。その弟の彦六は53年間、静岡と山梨の田舎牧師として生きました。 リバイバル 冒頭に書いた通り、1883(明治16)年、鹿鳴館の舞踏会に象徴される欧化主義を背景にリバイバルが起こり、8,000人だった信徒が1890年には34,000人となります。小崎弘道は、1883年の第三回全国基督教信徒大親睦会を次のように振り返ります。 「此会合にて来会者一同に与えた信念は十年ならずして我国は基督教国となるであろうといふことであった。又、少なくとも、二十三年に開かれる最初の国会に選出されるべき代議士の多数は、基督教徒であろうとの確信であった」(『七十年の回顧』) 宣教師の活動には制限があり、牧師はまだ少ない時代でしたが、意欲あふれる牧師と信徒たちによって盛んな伝道が進められました。誰も知らない無名の信徒伝道者、岩瀬泰三郎を紹介しましょう。 岩瀬は、1879年ロンドンにおいて組織されたScripture Unionの英国外における最初のスタッフです。『リビングライフ』の先祖にもあたるこの運動に津田仙が「聖書之友」と命名、1884(明治17)年に1,100名の会員で開始されました。一枚物の「一千八百八十四年目録」が、日本における最初の聖書通読日課表です。赤坂氷川町五番地のホイットニー宅(勝海舟宅)が最初の事務所でした。 岩瀬は、1884(明治17)年5月18日、前日に設立されたばかりの西群馬教会(現日本基督教団高崎教会)でフルベッキから受洗します。高尚な教えに自らの罪深さを知り、かつ「今の時勢には適当なる教えのやうに思われ」たからでした。入信の動機は次の通りです。 第一、神は一にして霊なること。 第二、聖書に己を愛する如く汝の隣を愛すべしとあること。 第三、基督が十字架に付くとき是等の罪を彼らに掩はする勿れと祈り玉へり。 1888年9月、旅行書記として八王子方面に行き、11月には栃木を巡回、磐梯山噴火の被災地を経由して米沢まで出向き、12月は「二十二年度ノ日課配附ノ為事務所ハ非常ナル繁忙故帰京以来朝八時より夜ノ十時頃まで手伝事ヲ致シ余程世話敷ハアレド誠ニ喜バシク前途ヲ望ンデ消日仕居候」という活況でした。会員はこの頃12,000名を越えます。 1889年2月、東京で帝国憲法28条の「信教の自由」を祝賀し、3月には元神戸多聞教会と英和女学校でのリバイバルを見て、四国まで足をのばしました。8~9月には39日間にわたって北海道までを巡回し、バチェラー設立の愛隣学校等を訪ね、10~11月には信越を巡り、越後高田で熱弁を揮っています。 「同夜講義所にて会友及未信徒のため、午後七時より聖書の友大幻燈会を開く。定刻前より聴衆続々入場し、開会の時は己に四百有余の聴衆にて満場立錐の地なし。(中略)岩瀬兄二時間余幻燈に就て熱心懇篤に説明せられ、聴衆は老となく幼となく貴となく貧となく聖書に対しては非常に感ぜし模様」(『聖書之友月報』11月) 1890年2月からは、関西、中国、九州を巡回し、熊本の海老名弾正に同行して宮崎まで足を運ぶなど、日本中を駆け巡って聖書の普及に努めました。岩瀬は、1891年に大儀見一郎から『日課表』や『月報』の編集を引き継ぎ、93年には北村透谷に引き渡し、以後は一信徒として静かに暮らしました。行商伝道をした数多くのコルポーター(聖書売捌人)が活躍し始めたのもこの時代です。
〈 全国基督教徒大親睦会、1883年 〉 〈 日本最初の聖書通読日課表、1884年、B4 〉 〈 1891年の聖書通読日課表、12.8×9.4㎝ 〉
山口陽一 1958年群馬県に4代目のクリスチャンとして生まれる。金沢大学、東京基督神学校、立教大学に学ぶ。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会、日本基督教団吾妻教会牧師を経て、現在東京基督神学校校長、日本同盟基督教団市川福音キリスト教会牧師。
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