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日本キリスト教の足跡を追って ③
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日本プロテスタント宣教の夜明け |
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日本プロテスタント宣教の夜明け 東京基督神学校校長 ● 山口陽一
キリシタンの繁栄と弾圧を二回にわたって見てきました。 今回は、プロテスタント宣教師の来日から最初の教会設立まで、 日本プロテスタント宣教150年の夜明けです。
1. キリシタン邪宗観 徳川幕府の宗門改役井上筑後守政重は、過酷なキリシタンの検索と弾圧を行いました。その結果、彼が役を退く1658年には信仰を表明するキリシタンはいなくなります。棄教したキリシタンは「転び」と呼ばれました。彼らの立ち帰り(信仰復帰)を防ぐため、絵踏みや南蛮誓詞が行なわれました。転んだ後、仏教徒を装いながら村ごとひそかに信仰を続けた人々が「隠れ(潜伏)キリシタン」です。キリシタン禁制をテコにした人民統制が図られ、宗門改役は1664年以降諸藩に置かれるようになります。1671年には宗門改帳が制度化されました。すべての家は寺の檀家とされ、寺院が人々の身分を証明する寺請制度が完成します。幕府は支配のために寺と神社を利用し、キリシタンは国害の邪宗門とされたのです。バテレン密告の褒美は1674年以後、銀500枚、イルマンと立ち帰りは銀300枚、同宿と信徒は銀100枚ですが、場合によっては300枚。そう記した高札は幕末まで掲示され、明治政府に引き継がれます。転びキリシタンの子孫は類族として幕末まで監視されました。プロテスタント宣教は、キリシタン邪宗観と戦うところから始まります。
2. ベッテルハイムの琉球伝道 1800年代に入ると日本へのプロテスタント宣教の準備がさまざまなところで始まります。1837年、イギリス商務庁の通訳官K・ギュツラフは、尾張の漂流民の助けでヨハネの福音書と手紙の日本語訳をシンガポールで刊行しました。「ハジマリニ カシコイモノ(賢者=キリスト)ゴザル、コノカシコイモノ ゴクラク(極楽=神)トモニゴザル」と始まる『約翰福音之伝』です。その漂流民を送り届けようとした米国のモリソン号が異国船打ち払い令により追い返されたのもこの年でした。 ロンドンでは1846年9月、The Evangelical Alliance(万国福音同盟会)が創設されます。これは福音主義クリスチャンの親睦と伝道協力の運動で、19世紀後半のアジア宣教に大きな影響を与えました。 同年4月末、国教会系のイギリス海軍伝道会から派遣された宣教医ベッテルハイムが那覇に上陸しました。当時の琉球は、薩摩藩の支配下にあり、清にも朝貢していました。薩摩藩の一部ではない異国でしたが、幕府のキリシタン禁制が布かれていたという観点から見ると、鎖国日本の一部でした。ちなみに先住民アイヌの地(北海道)の南部には松前藩がありました。ロシア正教の南下により、アイヌ地にキリシタン禁制が及んだのは1799年のことです。 ベッテルハイムはただ上陸しただけではありません。妻と2人の子を伴い、8年間も滞在し、那覇で生まれた子にはナンシー・ルーチュー(琉球)と名づけたのです。度重なる妨害を受けながらの伝道で40人ほどの求道者が生まれ、数名に洗礼を授けました。1854年に香港で琉球語訳(片仮名)の『路加伝福音書』、『約翰伝福音書』、『聖差言行伝』、『保羅寄羅馬人書』を発行し、1858年には漢和対訳の『路加伝福音書』、1873年には日本語訳(平仮名)の『路加伝福音書』、『約翰伝福音書』、翌年には『使徒行伝』を発刊したのです。照屋善彦『英宣教医ベッテルハイム』(人文書院、2004年)は、ベッテルハイムこそ、プロテスタント日本宣教の先駆者であるとしています。これを起点と考えれば、日本のプロテスタント宣教は今年163年目を迎えることになります。 1853年ペリー来航、1854年日米和親条約による開国、1858年日米修好通商条約と続き、翌1859年には横浜・長崎・函館が開港されます。今年は「日本開国とプロテスタント宣教150年」とするのが正確でしょう。
3. 日米修好通商条約 ペリーがこじ開けた鎖国の扉を、さらに開かせたのはタウンゼント・ハリスでした。米国監督教会(聖公会)の信徒である彼は言います。「今こそ、日本人の残酷なキリスト教迫害に対して、最初の打棒が加えられるのだ。神の祝福によって、こんど私が日本人との交渉に成功するならば、私はアメリカ人のために日本に教会を設立する権利と、キリスト教の勤行の自由を敢然として要求するつもりである」(坂田精一訳『日本滞在記』下、岩波文庫)。彼はキリスト教的使命感をもって日米修好通商条約の締結交渉にあたり、第8条において居留地内におけるキリスト教信仰の自由を確約させたのです。日本にとっては不平等条約でしたが、プロテスタント伝道にとっては、これが足がかりとなりました。 1859年、宣教師たちの来日が始まります。6月下旬、長崎に上陸した米国聖公会のウイリアムズは立教大学を創設し、主教として活躍します。10月18日、米国長老教会の宣教医ヘボン、11月1日には米国改革派教会のS・R・ブラウンが神奈川に到着、その住居とされた成仏寺では11月13日に礼拝が開始されました。ヘボンは医療と共に『和英語林集成』という辞書の編纂で日本の開化に貢献します。11月7日、長崎に到着した米国改革派教会のフルベッキは、致遠館で大隈重信らを育て、大学南校(東京大学)の教頭を務め、明治政府の顧問として岩倉具視使節団の欧米派遣を提案しました。彼ら三人の協力により、明治学院、文語訳聖書はつくられます。ペリー艦隊の乗員であり、琉球でベッテルハイムの影響を受けたゴーブルは、バプテストの宣教師として1860年4月、米国改革派のバラは1861年11月に神奈川に到着、1869年には長老教会のカラゾルス、フェリス女学院を創設する改革派のキダー、米国会衆派のD・C・グリーンらが続々と来日し、1872年までに宣教師は31人となりました。
4. 最初のプロテスタント教会 1861年、The Evangelical Alliance(万国福音同盟会)の初週祈祷会が横浜で始まり、翌1862年11月20日には長崎に在留外国人のための礼拝堂が竣工、横浜では同年4月、英国領事館付チャプレンとしてM・B・ベイリーが着任し、英国国教会のクライスト・チャーチが設立されました。長崎と横浜のこれら二つの教会が日本における最初のプロテスタント教会です。1863年2月18日には改革派関係のユニオン・チャーチが設立され、ゴーブルと共に帰国した日本人漂流民仙太郎(通称三八)もこれに加わりました。 1865年11月5日、バラは日本語教師の矢野元隆に最初の洗礼を授けます。キリシタン禁令の高札が掲げられている時ですから、この頃の受洗は命がけでした。バラは1866年8月から米領事館内の自宅で日本語礼拝を始め、改革派教会は1871年5月、徳川幕府から譲り受けた居留地167番の土地(755坪)に小会堂を建てたのです。 1872年2月9日(旧暦1月1日)篠崎桂之助の申し出により、この小会堂において日本人の初週祈祷会が始まり、バラはイザヤ32章15節からペンテコステについて語りました。祈祷会は熱気を帯びて連日行なわれ、ついに3月10日、日本人を信徒とする最初のプロテスタント教会、横浜公会(日本基督公会)が設立されます。篠崎桂之助、押川方義、吉田信好、竹尾忠男、安藤劉太郎、櫛部漸、佐藤一雄、戸波捨男、大坪誠之助の9名が受洗、すでに受洗していた小川義綏、仁村守三を加え11名をもっての教会が発足し、小川が長老、竹尾が執事に選ばれました。安藤と仁村は太政官から派遣された諜者(スパイ)でした。以後、牧師として活躍する杉山孫六・熊野雄七(4月28日)、本多庸一・北原義道(6月9日)、奥野昌綱(8月4日)、井深梶之助(1873年1月5日)、植村正久(5月4日)、安川亨(8月)らが洗礼を受け、1873年末の会員数は75人(内小児13)となります。米国和蘭改革派教会(Reformed Church in America)に属しながら、日本では教派に属さないことをめざす教会でした。
〈 キリシタン禁令の高札「正徳元年(1711年)」 〉 〈 ギュツラフ『約翰福音之伝』(日本聖書協会) 〉 〈 成仏寺(横浜市中央図書館所蔵) 〉
山口陽一 1958年群馬県に4代目のクリスチャンとして生まれる。金沢大学、東京基督神学校、立教大学に学ぶ。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会、日本基督教団吾妻教会牧師を経て、現在東京基督神学校校長、日本同盟基督教団市川福音キリスト教会牧師。
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