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日本キリスト教の足跡を追って②
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天国を仰いだ殉教者たち |
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天国を仰いだ殉教者たち 東京基督神学校校長 ● 山口陽一
昨年の11月24日、長崎ではカトリック教会の列福式が行なわれ、ペトロ岐部と187人の殉教者が福者に列せられました。日本では141年ぶりのことです。今回は世界のキリスト教史に特筆される、いや天において覚えられているキリシタンの殉教について考えてみましょう。 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイの福音書 16章26節)
1. 高山右近の信仰 1587(天正15)年、九州を制圧した豊臣秀吉は、突如博多の箱崎で「バテレン追放令」を発令しました。長崎は没収、教会堂は破却、宣教師は長崎から追放され、秀吉の使者は高山右近の陣を訪れて棄教を命じたのです。 アントニオ・プレネスティーノ書簡(1587年10月1日)によれば、高槻や明石で神社仏閣を破壊し、住民や秀吉の家臣を信者にしたと責められた右近は、人々を信者にしたのは自分の「手柄」であると胸を張りました。「予は全世界に代へても、キリシタン宗門と己が魂の救ひを捨てる意思はない。故に、予は領地、並びに明石の所領六万石を、即刻殿下に返上するであろう」。 金沢藩に伝わる『混見摘写』によると、次の使者に立てられたのは千利休でした。秀吉は、キリシタン宗門を捨てるならば肥後の佐々成政に仕えることを許すと、常になく寛容な態度を示しましたが、右近はこれを謝絶し改易追放されます。天下を手に入れた秀吉が失ったものを、すべてを失った高山右近は得たのです。 キリシタン信仰と茶道の関係について、ロドリゲスの『日本教会史』は言います。「高山ジュストは、この芸道で日本における第一人者であり、そのように篤く尊敬されていて、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとなるとわかったとよく言っていたが、われわれもそれを時折彼から聞いたのである。これ故、デウスにすがるために一つの肖像をかの小家において、そこに閉じこもったが、そこでは彼の身につけていた習慣によってデウスにすがるために落ち着いて隠退することができたと語っていた。」茶室は祈りのための奥まった部屋だったのです。 加賀百万石の前田家に迎えられた右近の名は、1606(慶長11)年の家老連署奉書で筆頭に記されます。石高は1万5千から2万石、娘ルチアは、重臣横山長知の長男康玄に嫁ぎ孫も生まれました。62歳の穏やかな晩年を迎えた1614年、徳川幕府のキリシタン禁令により、右近は、妻とルチア、亡くなった長男夫妻の5人の子、内藤如安夫妻と4人の子、長男トマスの子4人、宇喜多休閑と3人の子と共に追放されました。獅子の穴に投げ込まれても日に三度の祈りを続けた晩年ダニエルのことが思い起こされます。右近は、京都・長崎を経由して10月7日マニラに追放されました。そこで一行を迎えたのはルソン総督シルヴァです。加賀乙彦の『高山右近』は、これを凱旋としてみごとに描いています。
2. 三木パウロの説教 ザビエル以来、日本における布教はイエズス会が44年間独占していましたが、1593年以降フランシスコ会が加わります。1596年、イスパニア(スペイン)のサン・フェリペ号がマニラからの帰途、土佐に漂着しました。朝鮮出兵に失敗し異常な心理状態にあったと思われる豊臣秀吉は、宣教師派遣は国を奪う手段と言いがかりをつけ、京ではフランシスコ会士5名を含む24人が捕らえられ市中を引き回されました。そぎ落とされた彼等の左耳はオルガンティーノ神父のもとに届けられ、神父は日本における初穂であると感謝の祈りをささげたと伝えられます。長崎に護送される途中、殉教を願う二人が加わり、26人が西坂の丘で十字架につけられました。その中の一人、三木パウロは十字架の上から語りました。 「皆の衆、お聞き願いまする。私はルソン人ではござらぬ。れっきとした日本人でござる。そしてイエズス会のイルマンでございまする。私は何の罪も犯したわけではございませぬ。キリシタンの教えを広めたいという理由だけで殺されまする。この理由で殺されるのを私は喜んで居り、神さまから与えられるこのお恵みを感謝申し上げまする。死に臨んで私が偽りを申さぬことを信じて下さいませ。キリシタンの教えによるほか、救いの道のござらぬことを確信して申し上げまする。この死罪について太閤さまはじめお役人衆に、何の恨みも抱いてはおりませぬ。切に願いまするのは、太閤さま始め日本の皆の衆がキリシタンにお成りなさって救いをうけなさることでございまする」 石に打たれるステパノのように、三木の顔も輝いていたに違いありません。
3. 元和の大殉教 江戸時代の元号は慶長に始まり、元和、寛永と続きます。慶長の禁教令、元和の大殉教、寛永の鎖国と覚えてください。 ポルトガル・イスパニアの大航海時代が終わり、オランダ・イギリスが覇権を握りつつありました。ポルトガル貿易とキリシタンを利用して来た徳川政権は、オランダと結び貿易を独占しキリシタン排除に向います。1612年、禁制は徳川家臣団から始まり原主水ら14名が追放されました。2年後、彼は安倍川原で両手の指と足の筋を切られ、額に十字の焼印を押されますが、試練により彼は信仰に徹するようになります。1614年には宣教師96名を含む高山右近ら有力信徒148名がマニラ・マカオに追放され、大阪冬の陣、夏の陣で徳川の天下は不動のものとなりました。 1619年には二代将軍秀忠上洛に合わせ、京都の「だいうす丁」で捕縛された信者52名が七条河原で火刑にされました。橋本太兵衛の身重の妻テクラは3歳のルシアを抱き、12歳のトマス、8歳のフランシスコと共に縛り付けられ、隣には13歳のカタリナと6歳のペトロが縛られて焼かれたとイエズス会年報は伝えます。 追放された宣教師たちは、信徒たちを励まして天国に導くために密入国を繰り返し、その数は1615年から1643年までに101名を数えました。ディエゴ・デ・サンフランシスコは1614年の追放を逃れて江戸に潜入、一年投獄の後メキシコに送還されますが、18年にはマニラ経由で再入国、20年江戸、21年長崎、26年には海路で酒田に行き布教、29~30年に大阪で活動し、その後消息を絶ちました。 迫害を逃れたキリシタンは「使徒の働き」さながらに関東、東北からアイヌの地に潜伏して逞しく布教を続けました。東北における処刑者数は、秋田140、弘前88、仙台363、盛岡146、米沢86、会津57。迫害によって始まった東北のキリシタンの信仰が偲ばれます。天正遣欧使節の原マルチノは、1614年の追放後、1629年に60歳で召されるまでマカオで主に仕えます。東南アジアの日本人町や琉球に逃れて布教する人々もいました。 1622年、長崎で宣教師21名と同宿家族ら計55名が火刑および斬首されました。「元和の大殉教」です。1623年には江戸の札の辻で原主水ら50人が処刑されるなど熾烈な迫害が続きました。天正遣欧使節の中浦ジュリアンは九州各地に潜伏して布教を続けましたが1632年に小倉で捕えられ、翌年7名の同僚と共に逆さづりの拷問により殉教します。同時に吊るされ棄教したのが遠藤周作の『沈黙』で描かれるフェレイラ神父です。
殉教者とは、信仰により神と人への愛の中で殺された人々です。1614年から1639年までの殉教者は、教会が把握する処刑者数として宣教師134名、信徒1910名。ラウレスによれば刑死3171、獄死874の計4045名。チースリクは推定4~5万人と言っています。1867年にカトリック教会は205名を聖人とし、その後16名が加えられました。殉教を栄誉とするところでしか殉教は起こりません。バテレン追放令の年に生まれたペトロ岐部は、1614年にマカオ追放され、インドから陸路パレスチナを経てローマに至り、1620年司祭に叙階されました。1624年インドに戻り、ようやく1630年に帰国、長崎から仙台で布教しますが1639年に捕縛され、江戸で殉教しました。宗門改役の井上筑後守政重の記録は記します。「キベヘイトロは転び申さず候ツルシ殺され候同宿ども勧め候ゆえキベを殺し申し候由」
〈 二十六聖人記念館・三木パウロ像(中央) 〉 〈 ローマ・ジェズー教会の長崎大殉教図 〉 〈 『日本殉教精華』中浦ジュリアン殉教図 〉
山口陽一 1958年群馬県に4代目のクリスチャンとして生まれる。金沢大学、東京基督神学校、立教大学に学ぶ。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会、日本基督教団吾妻教会牧師を経て、現在東京基督神学校校長、日本同盟基督教団市川福音キリスト教会牧師。
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